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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2017年3月15日

「おいしさ」の構造

――「極める」は、「幸せ」感か

京都嵐山大善の写真 ビストロで、食事した。
 予約がなかなか入らない、と聞く繁盛店を、何十年も続けている店である。行って、シェフの顔を見て、もう15年以上前に、一度この人の料理を食べたことがあるような気がした。その時から何回か、場所も変わったらしい。
 その日は、年に何回かあるかないかの、空いている日であった。
 ゆっくりと、食事ができた。

 オープンキッチンになっていて、「カウンターか、普通の席か」と聞かれたので、「もちろんカウンター」を指定した。
 ある時から、といっても相当昔になるが、できれば作り手の見えるところで、食べるのが好きになった。
 別に、フレンチに限ったことではない。
 一般的に、寿司屋はカウンターがある。天婦羅屋にもカウンターはつきものだ。ラーメン屋でも、居酒屋でも、ともに共通するのは、作る姿が見えること。話す気になれば、作り手と会話できること。そして、食べるものが出来上がったら、最短の距離、時間で、目の前に出てくることである。

 板前割烹が登場するようになってから、さほど古いものではない、と聞く。料理屋さんは、作るところと、食べるところが高級であればあるほど、別であることがふつうであった。今でも高級料亭などは、そうである。たまに、デモンストレーションをかねて、料理人が奇麗な七輪を伴って、目の前で魚をあぶって食べることなどあるが、基本は、作るところは見えないところにある。

 思い出話し風に、「オープン・キッチン」「カウンター」を語る理由は、劈頭のビストロで、気づいたことがあった。
 お茶をいれることを教えながら、最後の最後で教えなければならないことを、あいまいにして、わかるように説明できなかったことが、これからは出来るかもしれない、と気づいた。

 形式に、あるいは姿にこだわるお茶よりも、「おいしいお茶」をいれられることをずっと目標に、お茶をいれることを教えてきた。
「おいしいお茶」をいれることを、目指してもらうわけだ。
 皆さんが、「達人」になる必要がないと私は思うのだが、なぜか皆さんはほぼ全員、「達人」を目指したがる。
 私は、「そこそこのおいしいお茶」がいれられれば、それで十分だと思う。「達人」を目指しても、全員が「達人」にはなれない、と思っている。

 たとえば料理人の場合だと、「あんなすごい料理人になれるはずがない」と思いながら、料理を習っている人はたくさんいる。お茶の場合は、たとえると「すごい料理人」を皆、目指したがる。それは、目指す人が、「おいしいお茶などいれられる」と、お茶への気安さからか、日本茶がわりに単一的で、簡単にゴールが見えるような気がする、など原因はいろいろ考えられる。

 教える側も、目標が「おいしいお茶」ではなく、形、そして少しの技術、そして精神性を持ち込むと、目標はわかりにくく曖昧なので、お客様として、長い期間教えることができる。

 話を戻そう。
「おいしいお茶をいれる」「達人」になるための最後の段階が見えなかったのは、飲む人の一言、思いを、受け止めていなかったから、と思えた。
 レストラン・料理屋で、食べ終えた時、心の底から「おいしい」と感じる時、「おいしい」以外に発せられるなにげない「幸せ」、という言葉を、軽く流して、受け止めていなかった。
 ただの「おいしい」ではなく、「おいしい」を超えた「幸せ」感である。

 私も、食べ終えて、「幸せ」と言葉にする時がある。また、人がそういうのを聞く時がある。その「幸せ」という言葉、思いを、「おいしい」のおまけの言葉くらいに捉えていたのである。
 じつは、それがすごく大事なこと、「おいしさ」の極があるとすれば、その「幸せ」感なくしては、おいしさの極は存在しないと思えた。

 では、なぜ、人は、食べものを食べて、「幸せ」と思うのだろう。
 お腹がすいた時であれば、多少まずくても、「おいしく」感じ、「幸せ」という安堵の感情を持つ。それも「幸せ」である。欠けていたもの、不足していたものが、満たされた「幸せ」。それは、「おいしい」ということを超えた感情である。
 身体が欲するもの、「欲」が充足された時に、その質や体験の評価を超えて、「幸せ」を感じる。
「名誉欲」もそうかもしれない。「金欲」もそうかもしれない。「物欲」もそうだ。満たされた時の「幸せ」感は、じつは大きな意味をもっている。

 お茶でいえば、「この人のいれるお茶が飲みたい」と思われるようになるには、「おいしい」と思われることは、最低条件であって、それに「幸せ」感が必要だということになる。
 言葉では簡単に言えるが、では、その「幸せ」感を飲み手に感じさせるためには、入れ手にどのように指導したり、教えていけばよいのか。

 一つのヒントが、前述の「カウンター」にあった。
 作り手が見える。見たからわかるわけではないが、いろいろのものを感じようと思えば感じられる。その人の個性や人柄を含めたものが、その動きを通しながら伝わってくるわけで、それを受け止めて感じる時に、「おいしい」を超えた「幸せ」感がある。
 言葉で交わせれば、なお容易に感じることができる。「カウンター」のもつ、素材や技術だけではない、たとえ言葉の会話はなくても、何かのコミュニケーションが存在すれば、「幸せ」感は可能になる。

「おふくろの味」とよく言うが、この言葉、あまり好きではない。私が、好きではなくても、この言葉は、ある風景を感じさせながら、長く使われている。
 この不滅の言葉が、使われ続ける構造は、この状況と同じように考えられる。
 DNAレベルでの会話が成り立つかどうかわからないが、そこには、否定できない繋がり、切ることができにくい対話が、つねに存在している。だから強い。「安心」という「幸せ」も味方する。

 受け手の側の「幸せ」感は、じつはそれだけでは、弱いものである。片思いのようなものだ。いれ手、作り手が、受け手の「幸せ」感を感じ取り、彼らがその時に、「よかった」とか、「うれしい」とか、私も「幸せ」と感じた時、それはとてつもない強い関係になる。
「不滅のおいしさ」として、受け手には、必要不可欠となる。しばらく時間があいたら、飢餓状態にすら感じるようになる。
 だから、すばらしいお茶のいれ手は、すばらしい飲み手が存在して、成り立っている。
 どちらも、素敵な人であることが、その条件になっている。
「達人」のいれ手は、だからまずどんな飲み手であっても、その人の存在を肯定して始まらなければならない。
 まず、お互いを認め合える存在になれるよう、務めることである。

 利休が言ったとされる「和敬」の言葉。それは、「和すること」「敬すること」において、「幸せ」に通じる「静寂」があるのかもしれない。いずれにしても、お互いの尊重からスタートである。

 でも、ここまでは、構造としてわかった。さて、「達人」への道を教える各論は、どうするのか。そのきっかけが見えたところで、もう「教えることを」やめたはずの自分に気づいた。
 気づきの時が、少し遅かった。

 今回の「いっぴん」は、写真にある京都のお寿司である。奥に「鯖寿司」、左に「穴子の箱寿司」、右に「小鯛笹巻寿司」、手前は「壬生菜巻き」である。
 もう禁断症状を超えて、どうにか早く食べたい、というところまで来ている。ご主人は、元気かな。というのも、店が改装中でお休みが長く続いている。
 一番「鯖寿司」がおいしい時に、食べられない。カウンター越しに、ご主人の京都風に、空気を逃さないように巻く技を見ながら、食べる日は、いつになるのか。
 店はもうすぐ改装を終えるはずだが、こちらが行く予定がない。
「京都・嵐山・大善」。
 おいしい、安いだけではない。「幸せ」がそこにある。

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