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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2017年4月1日

ご飯粒の間の空気に、「幸せ」を見た

――小倉「もり田」から「茶藝」を考える

台北「百家班」蝦の写真 どうも、今どきはやらない。
 理屈っぽいうえに、長すぎる。
 と、反省した。このところのこのコラムは、その傾向である。

 ということで、今回は、単刀直入に。
「技を見た」。
 そして、「感動」し、今の「茶藝」を憂いた。
 これでは、ダメだ。
 でも、私は過去の人。どうしようもない。

 カウンターの向こうで、小柄で少しふっくらした白衣で、細かく動いている。
 包丁を扱い、ネタに細工をし、そして少し姿勢を起こしたが、まだ前かがみのまま、シャリを小さめにとり、ネタのうえにのせて、握り始める。一握りして、前後を返し、軽くもう一握りして、上下を返し、整えるようにして、もう一握りして、目の前の板の上に差し出す。
 動作としては、ふつうの職人の手順と変わりはない。違いといえば、その流れ、その醸し出す雰囲気が、「姿」になっていることである。
 しかも、「すごさ」を感じさせない、「姿」である。
 寿司を口に運ぶ前に、その「姿」が、自然に溶け込んでくる。

 自信過剰な、評判だけはよい職人にありがちな、「これでもか」という挑戦的な「姿」ではない。その人にも若い頃、そういう時代がひょっとしたらあったかもしれない。
 しかし、今は、お客が口に寿司を含み、一拍おいて、無言で笑みがこぼれるその時までが、一つの自然、一つの風景、一つの舞台、一つのドラマになっている。
 肩に力がはいっていないゆえ、心地よい。

 もっといわせてもらいたい。
 シャリを握る時が、この人のすべての技が凝縮しているかもしれない。
 気づくことは、必要ない。でも、注目する気にさえなれば、その握る圧力のようなもの、それがこの人の技のすべてを象徴しているような気がする。
 小さめのご飯の粒と粒の間、空気の存在だ。

 握る強さ。それは、粒と粒との間の空気をどこまで残すか、の技である。
 強すぎると空気はない。弱すぎると空気は残るが、口に入る前に崩れてしまう。
 まさに程よさ、それは口に入った時にはしぜんすぎて、当たり前に感じてしまう。その抵抗のない姿を作り出すのが、「技」である、と思った。
 案の定、主人は、客を見て、客の雰囲気を見て、そして天気を見て、ネタの状態を見て、その握りの強さを変えるという。空気の量を変えているのだ。常連は、だからいつも極上の状態で、食べることになる。

 この人のおいしさは、素材選び、下ごしらえ、シャリの処理、一連の技など、もちろん必要だが、その見えない空間が決めてになっている気がした。
 すべてが、「優しさ」と「柔らかさ」。そして「しぜん」である。
「おいしさ」は、「幸せ」へと変わる。

「食」好きの人たちが、そして腕ある職人たちが、「一度は行ってみて」と言っていた意味がわかった。自然に、「幸せ」と独り言が口に出る。
 小倉「もり田」。ご主人は、80をすでに超えたという。

 翻って、中国茶の世界。「茶藝」を比べてしまった。
 ずっと20年以上抱えている「茶藝」が、なぜか「しっくり」しない、心から感動できない理由。
「わざとらしさ」、「したり顔」、「おしつけの美しさ」、いろいろ悪いところは言えるが、それらは見て見ぬふりをすれば、どうにかやり過ごすことができる。
「茶藝」という30年ほど前に登場したものだから、まだ達人は登場していないのかもしれない。でも、それにしても、将来を予見させる人が登場していてもおかしくないだろう。

 もう一度考えてみたらよい。茶藝の言葉は、「茶」、つまり「お茶をいれ、飲む」ことがなければ、存在しないことを。
 茶を飲んだ人が、「幸せ」と感じるところまでいかなくても、その手前にある「おいしい」できることが、「藝」として成立する最低条件であることを。

 もうだいぶ前になるが、「茶藝は、美しく見えればよい。お茶のおいしさは関係ない」と言っていた人がいた。
 当時、私は論破する自信がないから反論しなかった。しかし、今は違う。お茶をいれる過程がどんなに美しくても、おいしさの感動がないのなら、言葉が過ぎるかもしれないが、まずいお茶に付き合わされることは、ごめんこうむりたい。残りの時間が短くなったからかもしれない。
 自己満足を押し付けられると、「迷惑」と感じるようになってきた。

 よく、「きれい」「美しい」と周りが褒めている姿を見る。
 しかし、本心でそんなことを言っているのだろうか。本人が誤解してしまって、上達の芽を失いかねない。
 仮に「美しい」「きれい」といわれる人のお茶が、「おいしい」「幸せ」を感じるものであったなら、どんなにすばらしいことであろう。

 逆に、派手やか、華やかな雰囲気は感じられず、地味な感じすらある茶藝がある。周りはあまり評価しない。でも、いれられたお茶は、「おいしさ」と、そして飲んだ人がなにげなく「幸せ」ともらす、お茶のいれ手がいる。
 それこそ、「姿」があり、「藝」がある。いれる「人」がいる。

「わび」「さび」の世界も、そこにあった気がする。
 利休が、一方で黄金の茶室を作り、黄金の道具を使ってお茶をいれた。一方で、妙喜庵の待庵を作り、二畳という極小空間の中に「わび」がある、と説明される。豪奢とわびは、対極にあるのではない。背中合わせにあるのである。どちらも、存在してこそ意味があり、どちらかがなくなったら、ともにその存在がなくなる。

 お茶の字がつく以上、お茶をいれてもらいたい。お茶を飲ませてもらいたい。
 どうしてそんなに「茶」を軽んじて、「茶藝」の名手足り得るのか。それを、その時だけの感動で、評価する周囲を、責めることはできない。早晩、過去の語り草になってしまうことを予言して、指摘できる人がいないから。
「また会いたい」、「また飲みたい」、そんなことを長く持ち続けられる「茶藝」をする人は、いますか。いるのなら、教えて欲しい。すぐにでも行って、学びたい。「幸せ」を感じたい。
 小倉「もり田」に、行くように。

 と、また長く、理屈っぽくなってしまった。

「いっぴん」は、写真のとおり、見た目はあまりよくない。店の写真は、本物よりも綺麗にとられているので、下のアドレスで、見るとよい。
 http://www.prawn.com.tw/files/11-1356-474.php
「蝦」料理である。アジアで蝦を食べるには、養殖の場合も多いので、汚染の問題などが気になる。それを跳ねのけてでも、食べたい料理である。
 台北「百家班」。「胡椒蝦(コショウ風味)」「檸檬蝦(レモン風味)」「蒜頭蝦(ニンニク風味)」など、どれもおいしい。ただし、手で剥いて食べることになるので、手がベタベタになる。ウエットティッシュが必需品。日本で蝦を食べる値段より、ずっとずっと安い感じ。このところの台湾行きでは、毎回外せない。
 
 このコラムの中に、毎回、「いっぴん」の話しをもつことにした。
 どのような形式で登場するのかは、わからない。これもなりゆきで始めたら、いずれ形ができるであろう。
 中国茶との関わりも、私の「食いしん坊」から始まったものである。どんな「食」の逸品か、一品か。楽しみにしていただきたい。

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