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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2017年4月15日

「美しい」と感じる茶藝を見たい

――どこかにある「押しつけ」「違和感」。それを超えるものは……

ウニの牛肉巻きの写真「いっぴん」からである。
 美味しいと感じて、しばらくすると無性にまた食べたくなるものがある。今回の「いっぴん」、写真は、そんなものの一つである。<br>
 食べたくなるからといって、すぐには食べられない。遠く、福岡の地にある。
 福岡にいくと、これだけははずせない。必ず食べに行く。

 写真の見た目はあまりよくない。が、実際は、美味しそうな「音」がしている。そして、湯気があがっている。赤く巻いたものの上に、ワサビがのっている。
「ウニの牛肉巻き」である。
 ウニを、薄い牛肉で巻き、軽く焼いて(ほとんど火を通すくらい)、その上にアン状の汁がかかっている。出されるたびに、「すぐに食べてください」といわれる。

 まだ、冷たさも少し感じられる牛肉を噛むと、そこにはウニがある。口に含むと、牛肉とウニが一緒に溶けるように、口に広がる。汁と相まって、絶妙の旨味である。
 この「いっぴん」を食べるために、福岡に来ている、と言っても、決して過言ではない。

 福岡に行かれる機会があったら、是非に。福岡の、居酒屋「海物・山物」の定番メニューにある。その他、系列の水炊き「かつえ」、寿司「キヨノ」でも、少し前に、予約時に頼んでおけば、出してくれだろう。それぞれの場所などは、ネットで調べるとすぐにわかる。

 久しぶりに、中国からのお客様にアテンドして、一緒に食事をした。
 中国国際茶文化研究会の若い女性スタッフで、浙江省と静岡県が友好締結をして、35年の記念行事のため来日した。彼女と初めて会ったのは、もう7、8年前になるだろうか。臨安にできた「林学院」(現・浙江農林大学)の茶文化研究科の学生だった。
 ちょうど、研究会との仕事を現在やっている清水真理さんも、時間があったので参加され、一緒に歓談した。

 お茶の話は、ほとんどなし。その方が助かる。どうして、お茶関係者との話しは、お茶の話しだけになり、つまらなくなってしまうことが多い。
 清水さんが、「彼女の茶藝は、美しい。前から、是非こんな美しい茶藝があると、日本の人たちにも、見てもらいたい、と思っている。招待したいが、なかなか機会がなくて…」と、言った。

 彼女の茶藝は、見たことはなかったが、何となく想像がつく。確かに美しいだろう、と思った。そして、あることを思った。
 日本でも、美しい茶藝をする人がいる。茶藝をする人自身が、美しい場合もある。あるいは、道具などの設えが美しい場合もある。いろいろの美しさを感じるのだが、どこかしっくり来ない。その原因が何なのか。
 私にとって、茶藝を教えるときの、長年の課題にもなっていたことである。

 彼女と清水さんとのやり取りで、彼女の茶藝は、「しっくり」した茶藝であることが、想像がついた。長年の感である。
 彼女自身の美しさもあるだろうが、たぶん、「押しつけ」がない。「自然である」と思える。

 なぜにその「自然さ」が、できるのだろうか。
 そのことを、楽しげな会話を聞きながら、考えた。
「自然」ということは、彼女は「主張する必要を感じない」のであろう。環境や背景や彼女自身であって、「作る」ということをする必要がない、演技する必要がないのであろう。

 なぜ彼女は、「作る」「演技する」必要がないのだろう。
 簡単にいえば、中国人としてのDNAみたいなものなのかもしれない、と思った。
俳優が、よく聞く「なりきる」と言う。その必要がない。「なりきる」努力をしないでも、「なりきって」いるのだろう。
 ところが、日本でみる「美しい」といわれる茶藝は、その「なりきり」ができてないので、その時は「美しい」と感じても、どこか「しっくりこない」、あるいは「押しつけられる」ような感じ、場合によると「傲慢な」感じがするのかな、と思った。

 そうしてしまうと、日本人には、「美しい茶藝」は無理、みたいになるが、そうではない。逆である。そこに、「美しい茶藝」への道が開ける。

 まず、共通の舞台に乗ることである。
 それは、「お茶をおいしくいれる」という基本である。
 中国でも、一時期、「茶藝師のいれるお茶はまずい」と言われていた。まだ、その傾向は残っている。「美しい」茶藝を見ても、お茶がまずければ、すべて帳消しである。
 たとえ「美しい」と感じなくても(じつは、「美しさ」を前面に出して努力しなくても、「機能美」を超えた「なりきり」はできることについては、今までに何度も書いてきた)、いれたお茶がおいしければ、同じお茶を楽しむ、感動する世界、茶藝の世界に入ることができる。

 では、「美しさ」を探求しての茶藝で、「なりきる」こと、「違和感」がないこと、「押しつけ」がないこと、「飽きる」ことがない域まで、中国文化、風土のようなものを持たないものが、どうしたらいきつけるのであろうか。
 決して、中国文化になる、風土になりきることを指していない。むしろ逆である。日本人であったり、日本文化ということを背景に、自分自身を「美しく」磨き、表現することである。そうすると、すぐ和服を着たり、ということになりがちだが、そうではない。磨き、愛される自分自身を表現することである。

 いろいろのアプローチが見えてくる。
 その中の一つが、「なりきり」である。俳優たちの言葉を聞くと、「なりきり」のための努力は、その人その人で違うらしい。その人なりのもの、方法を、見つけ出すより他はない。
 自分だけでは、なかなかむずかしい。それは、社会的な経験の量などにもよるからだ。ということは、齢重ねることが必要だが、それがなくても可能になる。演出家や監督の存在である。
 そのような茶藝の教え手は、知る限り、残念ながらまだ登場していない。それは、日本人に対しては、日本人が一番近いところにいる。そう考えると、中国の人は、あるところまではできても、象徴的にいえば、「なりきり」のところまでは、教えることが大変であることがわかる。

「美しい」と褒められる茶藝が、ここのところ注視されている。しかし、往々にして、どこかに「美しいでしょう」を感じる「押しつけ」があったり、自己中心的な「違和感」を感じるたりする。
「美しい」茶藝は、感動の絵、感動の彫刻のように、飲むものに迫り来る「美」の寄り添いがあるはずである。けっして、「ひとりよがり」ではない。
 そういう茶藝をできる人を知りませんか。是非見にいきたい。その人のお茶が飲んでみたい。

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