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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2017年7月15日

ついに岩茶を買わなかった

――時代は一周りし、再登場は数十年後か


 色々なことで、時代というか、世代が変わったことを感じる歳周りになったことは自覚していた。否が応でも、行き帰りの電車の中、食べ物の味、日常の中で、そのことを感じていた。それは、もう仕方のないことで、それにあわせて、残りの人生を生きていく覚悟はできていた。

 二十数年間、毎年必ず買っていたお茶を、「ついに」今年は買うことをやめた。ここ数年は、買うことをためらってはいたが、それでもこのお茶をいれ、飲んでもらうと、「おいしい」と言われるので、買っていた。

「武夷岩茶」である。
 よいお茶は、年一回摘みであるから、今年一年は、手元に残っている陳年になったお茶を除いては、岩茶のない年をおくることになる。

 地域性が強い中国茶の中で、「龍井茶」ほどではないにしても、全国区、あるいはお茶好きの間では、ストーリーをもったお茶として、ポピュラーになってきたお茶である。
 中国茶を学ぶものにとっては、絶対に知っておかなければならない、飲んでみなければならないお茶である。
 そのお茶を、今年のラインアップから外したのだ。

 ここ数年来の迷いを、買わない方向に決断させたのは、昨年のことである。
 昨年のクラスで、年に一回くらい飲まなければならない、と思い、武夷岩茶をいれて、飲んでもらった。
 中国茶を飲み始めてから数年のキャリアーの人の、このお茶を飲んだ反応が、私を決断させた。

「おいしい。今まで飲んだ岩茶の中で、一番おいしいかもしれない。」
と、その人は、いかにも正直に言った。
 その言葉を聞いた瞬間に、来年はよほどの武夷岩茶に出会わない限り、買うことはやめよう、と決めた。
 そして、その決断を、今年の春茶を購入するときに、実行した。武夷岩茶を買わなかった。
 中国茶のサロンを始めてから20数年。初めてのことである。

 理由は、「岩韻」を説明できないからである。
 ここ10年以上の迷いや、いつかは見つかる、作られるはず、と思っていた、「岩韻」のある「武夷岩茶」への諦めである。決別でもある。

「おいしい」と言ったその人を、責めるつもりなど毛頭ない。
 その人は、正直に言ってくれた。
 でも、こちらが「岩茶って、そんなものではない」、と言いたい、説明をしたいのだが、それができないのだ。

「何煎か飲み進む中で、のどの奥から、あるいは顎の付け根のあたりに、何ともいえない甘い余韻が残り始めて、次第に強くなっていく。その「岩韻」こそが、「岩茶」の特徴であり、「岩茶」を他の焙煎をした中国茶より、格調高く、存在感をもたせるものとして、評価させてきた。」と、言葉ではいえるが、「岩韻」を体験したことがない世代の人には、わからない。説明していることにはならない。
 
 本にも書いた。数えきれないくらい説明もしてきた「岩韻」。もう説明するものが存在しないのだから、岩茶は飲むことができない、と決断した。体験できないのだから、無理である。

「岩韻」で説明する「武夷岩茶」の時代は、確実に終わったのである。そうなってから10年以上が過ぎた。「岩韻」のない「武夷岩茶」しか飲んだことのない世代が、主流となった。

 思えば、15年以上前、当時の武夷山の茶葉研究所所長の王さんが私に聞いたことがあった。「どうして、日本人は、おいしいとは思えない武夷岩茶を作ってくれと頼んでくるのか?」と聞かれた。
 どういう意味か理解できなかった。
「伝統的な武夷岩茶は、15%程度の水分量を残して焙煎し、完成品とする。日本からの発注は、水分量を5%にして欲しいというものだ。お客様の発注なので、対応して納品するが、そこまで焙煎をすると、岩茶のもっている奥深い「岩韻」など感じられなくなってしまうのだが」、という説明だった。

 日本の発注側には、それなりの理由があったし、それを責めるつもりもない。消費者が求めていたものでもあった。
 その所長の心配は、それ以降、武夷岩茶が売れれば売れるほど、現実化していき、ついに中国国内向けのものも、焙煎が強いものが「武夷岩茶」のスタンダードになってしまった。

 お茶が変わったのである。「岩韻」のない「武夷岩茶」を説明することは、私にはできない。
 世間は、「岩韻」のない「武夷岩茶」になってから、10年も過ぎると、「岩韻」などの必要はなく、「武夷岩茶」はその伝説的なストーリーだけで十分になってしまった。
 そして、焙煎の香りの立ち方だけで、岩茶の比較をする時代になったのだ。
 武夷岩茶の時代は、違う時代に完全になったといえる。
 また、「岩韻」が感じられ、語られる時代が来るのか来ないのか。たとえ来るとしても、あと数十年はかかるであろう。その時には、私はもういない。それでよいのである。

鶏のスープの写真 今回の「いっぴん」も、前回同様遠いところにあるものでだ。しかも、看板もないレストランのものである。90p幅の安作りの扉を開けると、年寄りには無理そうに見える、やっと一人が昇れる、幅の急な階段。その2階にある、「私房菜(プライベィトキッチン)」の看板料理である。
 昼一組、夜一組、6名以上10名以下でしか、予約を受けない。しかも、中国語だけ。
 中国語もできない私が、お父さんの時代から、途中の休止の時を挟んで25年来通うのは、このスープを飲むためである。
 客家料理の、鶏のスープである。中には、干し大根が入っている。
 綺麗に澄んだスープだ。しつこさのない上品さ、心地よい甘さ、そして深み。心も身体も洗われるような、清らかなスープである。
 言葉で説明することは、難しい。機会を作って、飲んでもらいたい。なぜ通うのか、わかってもらえるはずだ。
 コース一つしかなく。いつも必ずこのスープから始まる。そして、何回も、最後までお代わりをしてもかまわない。
 今は、お嬢さん夫婦が取り仕切り、シェフとしてのお嬢さんが自分のスタイルの客家料理に昇華させてきている。
 お父さんの代から、夫婦で切り盛りしている「夫婦トウ(木へんに當)」。
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