2017年10月15日
東京で10月初めに開かれた、通称「エコ茶会」で、セミナーでお話しをし、そのあと、「ワンコイン茶席」で、お茶をいれさせてもらった。
セミナーは、「お茶のいれ方」を、いれる方に登場してもらい、その場で修正して、グレイドアップさせる、という「公開レッスン」の形で行なった。飲む方も、一般募集して、変化の立会い人になってもらった。
二人のモデルになった方は、その場で変化、変身し、そして次に繋がるお茶のいれ方のヒントを体験してもらえたと思う。
公開レッスンは、試されているのはモデルの方ではなく、私の方である。その場で、おいしいいれ手にする、魅力的な茶藝にすることができなければ、「なーんだ」ということになってしまう。
20数年間、お茶をいれることを教えて来た集大成のつもりであった。
ほとんどの講演では、話す内容を用意していかない私だが、めずらしく、お茶のいれ方の目指すもの、その進化のステージなどを整理して、準備し、お話しをするつもりでいた。
しかしながら、モデルの方を修正することに時間を費やし、十分にまとめをお話しする時間は取れなかった。
いれ方の進化のどのステージにあろうが、「なぜ、おいしさを目指して、お茶をいれなければならないのか」も含め、お話しをしたかった。もう一般の方には、教えていないので、これから先、公の場でお話しをする機会はないかもしれない。
でも、かなり明快に集大成できたつもりなので、きれいに整理して、プリントできるようにしようと思っている。
この20数年間、ともすれば、しつらえや道具、きれいにこだわるお茶に、なぜか違和感を感じながら、教えることをしてきたことへの、やっと答えが言えるようになったと思う。
「おいしいお茶を目指すこと」、人、茶葉、道具などに「寄りそうこと」が、全てを支配していることを、説明できるようになった気がした。そのアプローチのフェーズも、説明できるようになった。
「やっと」の感があるが、そう整理できた時には、一般の方へ「お茶のいれ方」を教えることをやめてしまってから後である。
「そういうものであろう」と思う一方で、今だったら、全ての人とは言わないが、目指される90%以上の人を、その方が慕われる存在になる「お茶のいれ方」を、教えることができると思える、と多少未練がましく、断言できる。
公開レッスンは、その自信を与えてくれた。やっと終着点までを、クリアに説明できる、実技で示せる、それを実証してくれた。
過去20年を超えて、どのくらいの人に「お茶のいれ方・茶藝」を教えてきただろうか。その方々には申し訳ないが、今だったら、もっと上手に教えることができる。少し申し訳ない気がする。
公開レッスンの後、「ワンコイン茶席」でお茶をいれさせてもらった。
この「エコ茶会」は、この茶席が「原点だ」、という思いを実感した。
私は、始まりには立ち会っていないが、聞いたところでは、「形式にこだわらず、お茶好きが、お茶を持ち寄って、気軽に、楽しくお茶を飲む」ことをしたくて、この茶会はスタートした。500円玉一個を持ち、その場で捨てられてしまう資源を無駄にしたくない、とのことで、茶杯(茶碗)は各自が持参して、席をまわるようにした。
いつしか、規模も大きくなり、いろいろのコーナーも増えてきたものの、ワンコイン茶席は、ずっと続いてきた。
そのあこがれの茶席で、お茶をいれた。
私も、数年前まで、「エコ茶会」でのセミナーで、お話しを依頼されるたびに、セミナーでお話しするよりは、ワンコイン茶席でお茶をいれさせて、とお願いしてきた。が、そのたびに、主催者に、婉曲に断られてきた。
だから、私にとっては、今回がデビューであり、ワクワクした感じで臨んだ。
主催者から事前に気づかれないように、断りにくくするように、ちょうどXiangLe「悠」の会が席を持つので、いつも人が集まらないといわれる、最終日最終席に入れてもらった。
久しぶりに楽しく茶席でお茶をいれることができた。
終わってから、上機嫌である私がわかった。
「なぜ、お茶と関わるのか」、という問いに、答えの一つは、こうだと思っている。
人に会い、お茶をいれ、お茶を飲み、お話しをし、別れる時に、「よかった」と思える時間であったこと、それを感じること。
それが、この「ワンコイン茶席」にはある。今回、それを十分に感じとることができた。
そこに、「エコ茶会」の原点があると感じる。
それは、「人と一緒に、お茶をいれて、飲む」ということ。その意味あいの原点でもあると思う。
また、来年もここでいれることができるなら、と思いながら、それが叶うかどうか、うつろに思いながら、また歳を感じた。
今回の「いっぴん」は、「八寸」である。
京都、居酒屋風を標榜するが、立派な板前割烹である。「むろまち加地」。ここを訪ねる目的の一つが、最初に出てくるこの「八寸」にある。
前菜として出てくる「八寸」の楽しさと、その技のすごさを感じたのは、もう40年以上前になる。同じ京都の「千花」であった。
先代がカウンターの向こうで、小柄ながら、キリリとした風情で立ち、目の前に、豆皿にのった、一品たりとも妥協のない技を凝縮させた小品が、記憶が正しければ、いっぺんに十品近くきれいに並んだ。どれ一つとっても、絶品であった。各皿は、ほんの一口か二口の量である。
この八寸で、後の料理はかすんでしまうのでは、と思うくらい、おいしく、楽しかった。
今でも、和の料理でコースを食べる時、八寸で、その料理人のすべてとはいかないまでも、期待がもてるかどうか、わかるような気がする。
密かに、数店、このスターターの楽しさをもてる店が私のメモにあることは、ちょっとした誇りでもあり、幸せでもある。
「むろまち加地」も、その一つ。機会があったら是非行ってみるとよい。けっして高い店ではない。予約の時に、八寸が出ることを確認してさえおけば、必ず楽しめる。