2017年12月1日
「ほめられもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」
と、宮沢賢治は「雨ニモマケズ」の詩を、こう結んだ。
今どき、宮沢賢治などはやらない。昔は、教科書にこの詩は載っていた。たぶん、今は「宮沢賢治」の名前すら、教えることはないのではないか。
辛うじて、「銀河鉄道999」の世代は、彼の「銀河鉄道の夜」とリンクして、知っている人もいるかもしれない。
でも、その世代も、すぐに過去の世代になりつつある。
「知足安分」という四字熟語の方が、受験で勉強して、知っているかもしれない。
でも、「吾唯足知」は、茶道を学んだ人でもない限り、あるいは京都のお寺マニアでもない限り、知る人は限られているのではないか。
京都・龍安寺にあるツクバイに刻まれた、禅語である。
なんでこんな話を持ち出したかというと、この頃、限られた人と「お茶のいれ方」について語ることがあって、「向上したい」と問われる人へどのように答えたら、答えになるのかを悩んでいる。
「技術」や「テクニック」のことは、もう十分に、ともいえるほど修得できている。その応用も見事にできる。
茶藝の資格試験で習うような、道具の組み立てや飾りのセンスも、十分に発揮できる素養まで身についている。
いれられたお茶は、十分においしいし、魅力的である。
飲み手が感動する、いれ手の個性も、一応感じられる。
もうここまでいっていれば、「あなたは、日本でも、いや中国を含めても、かなり上位のいれ手である」、と十分評価できる。
でも、こういう人になればなるほど、「まだまだだ」という。そして、どうしたらもっと向上できるかを、有言、無言で問うてくる。
もうこのレベルになれば、教えることはほとんどない。
「個性」でいれるお茶を超えて、目指すとすると、「去私」とでもいった世界で、お茶をいれることであろうか。
「則天去私」といえば、四字熟語で学んだ若者の中で、知る人もいるかもしれない。その「去私」である。
もう遠い昔になってしまった「夏目漱石」が、好んだ言葉としても知られている。
その境地でいれられたお茶は、どんなお茶なのだろうか。
「主張のないお茶」、と言えるかもしれない。
「おいしいか? と問われることのないお茶」、とも言えるかもしれない。
ひと口飲んで、さりげなく、ふた口飲んで、清らかな風を感じ、み口飲んで、幸せをどこかに想い、ずっと飲み続けて、飽きることなく、飲み終わって去ったのち、その時間・空間を思い出し、一人ではないことを嬉しく思い、翌日にはそのお茶の時空にまた会いたくなり、それでいながら寂しくはないことに気づく。
なぜなら、いつもその人、そのお茶は、そばに在る。
想い出そうとすると、その香り、その味、その不思議な空間がいつでも想い出せ、香り、味すら蘇る。
そんなお茶であろう。
「共有」。
ネット社会の中で、ポピュラーになったこの言葉こそ、このお茶の世界の要諦がある。
前にも論じた「欲」の共有、その質が同質であることが、どれだけその世界への近道であるか。あるいは、同質に感じる経験を共有できたか。それは人のもっている根幹の「性(さが)」であり、「業(ごう)」ともいえる。だから、永遠であり、他者の介入を許さない強い絆を感じる世界でもある。
「おいしくお茶をいれる」世界は、基本の世界、土台の世界である。
「個性でお茶をいれる」のは、その土台がなければ、完成に近づかない。魅力を増強させる世界であり、他との差別化を顕示する世界である。
そして、その次にあるものは、永遠を約束させる世界である。
どう表現する世界か。むずかしい。
「私を超え」、「限りなく無であり」、「感じる必要もなく」、「考える必要もなく」、「主張もなく」、「求めることもなく」、「肩に力が入ることなく」、「同じ時空の中に存在し」、「そのことに価値すら感じる必要もなく」、「ただ在る」のみ。
そんなお茶をいれ、飲み。それが自然であること。そこに強制がないこと。
私がお茶のいれ方を教えるために、今やっと、わかったことでもある。
このために、私はお茶をいれ、教えてきたのかもしれない。
いや、そうではない。それが、私のなりゆき、自然だったのであろう。
「そういうものに私はなりたい」が、私の行き着いたところのような気がする。
そして、それを教えなければならない。伝えなければならない。
としたら、どうするか。
目標はわかったが、どうすればよいか。まだ確たるものが見えない。
今回の「いっぴん」は、また遠いところのものである。
台北・豊華小館の「扁尖筍鷄湯」。たけのこと鶏のスープである。写真は、11月23日にとったものだが、たけのこがシーズンではないということで、白菜がかわりに入っている。
私は、このスープを飲むために、この店が開店間もないころから、25年を超えて通っている。一度として裏切られたことはない。
浙江菜(浙江省の料理)の代表料理の一つである。杭州では、鶏ではなく、鴨を使ってのスープになる。杭州のこのスープの専門店「張生記」は、このスープでビルを建てた、といってもよいだろう。今でもおいしいが、「鳥インフルエンザ」の流行以来、少し味はおちた気がする。
台湾は、他の料理でもそうだが、鴨よりも鶏を多く使う。このスープも、鴨を使った方がもっとおいしいのでは、と思わなくもないが、鶏でも十分においしい。
料理の極みは、スープにある。古今東西、そうだと思う。
不思議に料理人の人格が出るような気がする。
豊華小館のオーナーシェフは、今、郊外の「春餘」で腕をふるっているが、残されたスタッフは味を変えずにがんばっている。
スープを飲んで、「幸せ」を感じる。お腹がいっぱいになっても、ちょっと時間が空くと、手を伸ばして、思わずまた飲んでしまう。