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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年3月15日

何度目か。「中国茶との関わりは?」

――窮屈なのは、もうダメ。いい加減がよい


 いつもおいでになる方々に、「今、注目する中国茶の人は?」とか、「誰のいれるお茶が魅力的?」、という質問をすることがある。
 昔から、時々する。答えがあって、「今度行ってみようかな?」と真顔で言う。わりに心からそう思っているし、興味がわく。
 
 冷やかしで行こう、というのではない。心の底から興味があり、勉強してみたいと思う。
 ところが、たいていの場合、行くのを止められる。相手が迷惑だ、といわんばかりである。
 こちらは、そんなたいそうな存在でもないし、ましてイヤなお客にはならないように、十分気配りするつもりである。むしろ、勇気づけることに専心し、臨むつもりだが、「迷惑だから、遠慮したほうがよい」と止められる。

 そもそもそんな質問をどうしてするのか、というと、私は、日本での中国茶の今をほとんど知らない。茶館やお茶屋さんにも行ったことは、ここ10年ほど、ほぼない。
 それを知ってどうする、ということもあるが、日本でこれから中国茶がどんな形で継続していくのか、それを見極めたい、という気持ちが大きい。
 また、人のいれるおいしいお茶が飲みたい、という単純な欲求がずっとある。
 
 先日、そんなこともあって、おいでになった方に質問をした。
 その方は、ある人の名前をあげた。そして、その魅力を熱く語った。
 なるほど、と思った。そんな話を聞くと、行ってみたくなる。会ってみたくなる。飲んでみたくなる。
 ところが、いつもと同じように止められた。
 でも、以前に比べて、私は今いろいろフリーである。中国茶の現場からみれば、卒業生である。そんなに迷惑をかけることはないはずだと思うのだが、それでも、強く止められる。

 その人をそこまで魅きつけるものが何かを見極めたくて、お勧めの方のホームページをのぞいてみた。
 そこにあった一字で、ちょっと距離を感じた。行った時の辛さに近いものを感じた。
 ずっと私が持っていた、中国茶のフィールドで感じる違和感の一つが、これであったと、認識できた。

 私のこれからの中国茶との関わりが、見えた、ということで、教えてくれた方には、とても感謝ししているし、その存在を否定するものではない。
 むしろ、人から「魅かれる」ものの一つの姿が、昔からも、今も、これからも、これであることがわかった、教わった、といってもよい。

 その一字とは何か。「道」という字である。
 それが、今まで、そしてこれからの私と中国茶の関わりを考えさせてくれたし、少し明らかにしてくれた。
 簡単に言えば、「窮屈な中国茶」は、ちょっと苦手である。できれば、そんな中に身を置くのは、避けたい。
 とくにこれから以降は、「構えることのない」、「意識することのない」、もっと言えば「どうでもよい」、そんなお茶の存在、環境がよいと思っている。

 誤解しないでほしい。「道」をいう、説く中国茶がいけない、と否定するのではない。あってよいと思っている。
 今までずっと、そんなお茶に、場に出会うと、どこか違和感を感じ、無理をしていた自分がいた。そして、これからの私の中国茶は、そのことに正直でありたい、と思っているだけである。

 若い頃は、日本の茶道や、そんな世界に魅力を感じた時があった。でも、その中でも、何か束縛された世界で、そして定型を進まなければ許されない、そんな雰囲気に、何かの違和感を感じ続けていた。

 決められた道を目指さなければ、異端として排他する、場合によると妄信や束縛すら感じた。
 中国茶の世界でいえば、なぜか「禅」との関わりを強調するあまり、一部には禁欲的なものこそ良しとする、束縛や押しつけが、私にはたまらなく窮屈な感じに思えた時もあった。

「侘び・さび」に表現されることがあってもよい。それは、押し付けられるものではない。自ら湧き出るものである。
 私のお茶は、まず、「おいしい」ことである。
その一点に尽きるといってもよい。それだけでよい。
 いれる側でいたら、「おいしく」いれることであり、飲む側でいたら「おいしく」感じられることである。そのためには、無欲では決してなく、欲の塊である。
 その欲こそが原点で、満たされたところから、全ては始まり、多くを解決する。
だから楽しい。共有できる。

 そんな姿を、冒頭の会話がキッカケになって、教えてくれた。感謝している。
 もう一度。「茶の湯とは、茶を点てて飲むばかりなること」。

醤油あられの写真 もういい加減にしろ、と言われそうだが、今回の「いっぴん」も、和歌山・湯浅のものである。
 一袋をいっぺんに食べてしまいたいほど、止まらない。
「湯浅しょうゆ あられ(角長・手作りしょう使用)」。買うときは、写真のラベルを確認して買って欲しい。
 しょうゆ味の「あられ」である。「角長」は、醤油発祥の地・湯浅でも、老舗の醤油づくりの一つである。製造者は、和歌山・岩出市の増田米菓とあるが、メーカーで売られているのかどうかはわからない。
 私は、湯淺に行った時、角長の店で買う。東京だと有楽町の交通会館の中にある「わかやま紀州館」で、扱っている。
 蛇足だが、角長には、この「あられ」の他に「醤油飴」というのが売られていた。これがとてもおいしかった。が、先日行った時に見当たらなかった。聞いてみたところ、作っていたおじいさんが亡くなって、もう作れないということであった。残念だ。

 この「あられ」のおいしさは、どう表現したらよいだろう。なかなかむずかしい。でも、あとをひくおいしさだ。
 機会があったら、是非一度試されたい。必ずやリピーターになる。
 無性におせんべいの類が食べたくなる時がある。そんな時には、これが欲しいと思うようになってしまった。それほどの魅力がある。

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