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コラム「またまた・鳴小小一碗茶」report

2018年9月15日

「時代はめぐる」中国茶・了

――今変換期の紅茶は、こんな過去を


 このテーマを書き始めて、こんなに何回も書くつもりはなかった。昔話のたぐいは、興味のない人には興味がないので、今回でよしにする。
 ただ、これだけは記録、記憶にとどめたかったものは、「紅茶」のことである。
 ここしばらく前から起きた中国国内での「紅茶」への傾斜は、お茶の歴史の流れの中で、経済成長と、中国人の国民性からくる「商品」としての「お茶」を知るうえで、興味深いともいえる。
「ブーム」は「流行」であり、「不易」ではないことを、中国紅茶の世界でも、数年後に知ることになるだろう。
 そして、この動きの中から、時代を超えて生き残るもの、生き残る「お茶」とは? ということも見えてくる気もする。

 中国国内で、紅茶は、ずっと高い評価をされなかったお茶である。やはり緑茶が一番であり、しいていうなら、世界で認められた「祈門紅茶」が、かろうじて評価されていた、といってよい。その証左は、価格に表れていた。紅茶は、安いお茶であった。
 近年の「金駿眉」の登場を待つまでなかった、といってもよい。

 でも、紅茶は、中国茶が作られるほとんどの地域で作られていたお茶である。
 しかし、国内では評価されないものも多かった。
 ただ、知る限り、紅茶を常飲していたのは、紫砂の茶壺の生産地、江蘇省宜興であった。ここでは、一般の人も含め、紅茶を飲んでいた。家庭でも、レストランでも。しかし、その紅茶は、名前すら明確でなく、宜興の街中でしか売られていなかった。

 紅茶の誕生についてすら、今世紀に入るまでは、世界の紅茶協会を中心にした誕生の説明をそのまま中国でも使っていた。つまり、紅茶は、中国からヨーロッパにお茶が輸出され、その移動の長い航海の中で、変質し、紅茶になった、とするものである。

 今では、紅茶の誕生は、福建省桐木にある、と胸を張りながら、中国国内が起源であることを説明できるようになった。
 そして、その説が、世界の定説に向けて進み始めてしばらくした頃、「金駿眉」は登場した。

 桐木では、その誕生を、1500年代の後期におくが、これには誕生の背景の整合性をみつけることはできない。私は、1600年代の半ば以降くらいではないかと思うが、詳しい説明をするのは、今回の目的ではない。

 誕生以降、紅茶は中国国内よりも、海外で評価され、輸出されて、世界への紅茶の広がりや生産地の拡大へつながっていった。今でも、世界中で一番飲まれているお茶は、紅茶であり、生産量の合計においても一番である。その基礎を築いたといってよい。

 海外からの需要を満たすように、中国国内での紅茶づくりは、広がっていった。
 桐木ののちに「正山小種」と呼ばれるようになる紅茶生産は、畑の広さからいって、量に限界があった。海外からの需要の方が大きかった。そこで、福建省北部で、桐木の紅茶をまねた紅茶が作られるようになった。
 今の名前でいえば、「坦洋工夫」「政和工夫」、そして一度近年途絶えたかにみえ、現在の紅茶ブームで、復活してきている「白琳工夫」がそうである。

 それらの顔は、すべて海外に向いていた。
 世界三大紅茶にあげられる安徽省の「祈門紅茶」ですら、1800年代の後半に、作っている緑茶が売れないので、海外需要のある紅茶の製法を桐木に学びに行きその生産が始まった、と説明を聞いたことがある。
 それは、緑茶の販売の限界を、紅茶の海外輸出に求めるための行動であった。

 同じような事情は、雲南省の「?紅」にも見ることができる。
 雲南では、緑茶が生産の主力であり、常飲されている緑茶を飲む生活が長く続いたためか、?紅の誕生は、1939年と中国紅茶の中で、もっとも遅いのでは、と思われる時期であった。
 中国建国後も、売れゆきが低迷して、それを打開するために、葉を細かくカットした紅茶の生産を始める。中国紅茶の歴史の中で、初めてのことであった。それは、海外における「ティーバック」用の紅茶の生産であり、それで?紅は、紅茶生産を続けることができた。
 もう20数年前、五台山(山西省)の会議の時に会った、カットを初めてやった雲南省鳳慶の工場長から聞いた話である。

 1990年代に入っても、世界の紅茶の生産量は伸びても、中国国内での生産量は徐々に減り始める現象が起きるようになった。
 国内的に、紅茶はまったく振るわないお茶となった。
 中国紅茶を支えていた輸出も、減り始めることになった。
 皮肉なことに、中国が紅茶づくりの技術支援を行っていたアフリカの国々が、紅茶生産を軌道にのせ、低価格で提供するようになると、世界市場の中ではより安価なアフリカの紅茶へ傾斜がはじまったのである。

 中国国内の紅茶は、1990年代に入ると、海外ブランド、とくにリプトンのティーバックの売れゆきが好調になっていった。あるいは、リプトンが作るコーヒー、ミルクなどとのブレンドティが、スーパーなどで大量に売られるようになると、国内ブランドよりも、味とは関係なく、海外ブランドへの傾斜が起きていった。

 その結果、それまであった国内の紅茶ブランドで、入手することが困難な紅茶がではじめた。「川紅」と呼ばれる「四川紅茶」などは、その代表例である。
 現地四川省で、入手しようとしても、名称はかろうじて使ってはいるが、じつは他の省で生産され、そこから持ってきたものであった。

 そんな中、10年ほど前であったか、「金駿眉」は登場した。
 最初の年のお茶は、おいしかった。評判になった。
 そして、その翌年、その翌年と飲んで、あまりにも味が落ちていったので、それ以来、飲むことはやめた。今までの中国紅茶の数倍どころではない、高い価格のお茶でもあったからだ。

 が、それを境に、金駿眉の成功を追うように、今まで紅茶を作っていなかった生産地でも、同じようなゴールデンチップ(金毫)だけの紅茶を作り、売り始めるようになった。
 多くは飲んではいないから、飲んだものだけで全体を語ることは乱暴だが、概ね共通するのは、価格に見合った味ではなかった。むしろ、腹が立つくらい、高くて、味がと伴っていない経験をすることが多かった。

 それまでに、金毫だけの紅茶がなかったわけではない。
 色々の紅茶で、あるいは碧螺春のように芽あるいは白毫の多いお茶で、このタイプのお茶がごく少量作られたことはあった。
 金駿眉の発売からしばらくして中国の関係者に聞いたが、このお茶の開発ないし販売を仕掛けたのは、北京のお茶市場だと聞いた。伝聞なので、真偽のほどはわからないので、違っていたらお許しいただきたい。

 それより数年前、北京のお茶市場は、新聞でも取り上げられる派手な動きを見せた。
 2005年の上海での茶文化節で、「大紅袍」の4本の茶樹からの20gがオークションにかかったことがあった。それが、19万8千元(約360万円だったと記憶する)で落札された。あとで聞いたが、落札者は、北京のお茶市場だということだった。

 経済成長が、おおきく拡大していく社会状況が一つの背景。
 そしてもう一つが、中国の人、文化が持つ、「ブランド」や「高価」ということに、価値をおく国民性が、もう一つの背景にあると思える。

「金駿眉」は、大きく二つのことをやったといってよい。
 低迷していた中国紅茶の生産を、蘇られせた。しかも、今回は、海外向けではなく、国内に向かって、大きな市場を作った。
 もう一つは、価格がずっと安かった紅茶を、超高価格に持ち上げたことである。生産者も潤っただろうが、いちばん潤ったのは、中間の流通に携わる人たちであったろう。
 教えてくれたのは、高価格のお茶でも、あるいは高価格ゆえに売れるお茶が存在することを、再認識させてくれたことである。
 それを追うように、皆が紅茶を作り始めた。失敗をし、消え去ってしまったものも多いだろう。
 指示したはずの購買者は、この飽きやすいリスクを抱えた紅茶から、気持ちは離れ、また規模が縮小してくるだろう。すでに始まっているような気もする。

 紅茶ばかりでなく、西湖龍井も、この2、3年、高価格のもの、とくに贈答用の市場が極端に縮小した。それを顧客としていた流通は、今、大きな壁にぶち当たっている。
 それが生産現場にも影響を与え、そして、最後はどういう形で消費者に向いてくるのか、ここ数年で、また変化が起きる予感である。 

サルデスカの写真 そろそろこの中国茶エッセイの終わりも見えてきた。中国茶の「サロン」としての活動をやめて、2年が終わろうとしている。もういちだん、中国茶の外的な活動を縮小しようと思っている。
 ここで、「いっぴん」を紹介してきたのには、私にとっての中国茶は、「食」の中での部分であって、お茶だけの存在ではないからだ。
 連載もあと残り少なくなるので、今、私が時間さえあれば通いたいレストランを「いっぴん」として紹介しておく。

 スペイン料理が好きである。とくにバスクのバルでの食べ方、飲み方が、好きである。京都の飲み屋さんで、ずらり大皿や鉢に盛られ、並べられる「おばんさん」を、マイペースで、その時その時のお腹の空きぐあい、調子と相談しながら、食べ、飲むことができるのが好きだ。隣には、心置けない人が一緒であるとよい。バスクのバルは、それと似ている。
 スペイン・バスク(フレンチ・バスクではなく)は、日本の食材との共通点も多い。

 今、スペイン料理を食べたいなら、というよりも、夕食を食べたいなら、一番先に思いつくのがこの店である。
「sardexka(サルデスカ)」(https://www.sardexka.com)。バスク語なので、「x」の表記が見える。「フォーク」の意味である。
 特定の料理がおいしい、という紹介はできない。すべておいしい。だから、その日、その日にシェフに任せて食べるのがよい。
 今までどんな日本的食材が出てきても、見事にバスクに変身している。
 だから、ここで料理を食べている時は、スペイン・バスクにいる。話されている言葉が、日本語だけだ。
 東京でも、色々のスペイン料理に行ったが、今、ここが一番私にとってのスペインである。それを超えて、「明日外で何か食べる」ことがあれば、まずここに行くことを考える。

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