2013年4月15日
私は、中国茶の「お茶会」というものにほとんど行かない。
お茶会は、たいていが土曜日、日曜日にあることが多く、いろいろの用事もあって、まず行くことができない。あるいは、日本の茶道の多くの茶会にあるように、形式的、あるいは茶道のお稽古の発表会、といった雰囲気と同じように感じ、あまり馴染めないこともある。
このところ中国茶のお茶会が増えている、と聞く。いろいろな人が、いろいろな形でやっているようだ。結構なことである。
中国的にいえば、「茶事」であろうが、中国の場合、人を呼んでお茶を飲むことはあっても、日常的なことの延長であって、日常と少し距離をおいて、そして少しセレモニアルに、あるいはハレの世界としてやることは、あまりない。
浙江省徑山寺の茶事にルーツがある、ともいわれる日本の茶道における「お茶会」。
日本における中国茶は、日本的な茶会の要素を取り入れて、「中国茶の茶会」という日本発の中国茶の楽しみ方、表現の仕方をまた提案しはじめている、ことになるかもしれない。
中国における現代茶藝が、台湾の人たちが、日本の茶道の影響をどこかに受けながら、作り上げていき、今の姿になってきているように、いずれ中国でも、「お茶会」が今よりもっと儀式的な要素、精神的な要素、芸術・文化的な要素を謳って、広がっていくのかもしれない。
と思う一方で、そうはならないのでは、という気もする。中国でよく見るのは、「茶藝」の「表演」である。練習・研鑽の発表としての位置づけである。求めているものが違うのでは、という感じもして、発表会的な要素で踏みとどまりそうな気もする。
いずれにしても、日本の多くのお茶会には、今の段階では、どこかに「発表の場」という要素がある。そのことは、悪いことではないが、何かが足りない気がする。
日本らしいともいえる。日本人の資格好きと同じく、「お茶会をする。そのために練習をする」といった、目標の設定がしやすい。そして、お茶会が終わった時の「達成感に酔える」。たとえは悪いかもしれないが、「文化祭」「学園祭」のような感じである。
他者の厳しい評価の以前に、そこに至る過程に価値があり、「達成感」にこそ価値をおく事ができる。
そのお茶会を、「自己満足」と評価されることのない、参加された人から「また来たい」といわれるものにできたら……。
「やってみたら」といわれる前に、「私だったらこんな茶会にする」という企画をたて、今年一年、やることにした。月一回、年12回である。
企画の作業をし始めたのは、ご案内を出す関係もあり、昨年9月。
まず考えたのは、「なぜ、お茶を、人と一緒に飲むのだろうか」ということ。そして、「どうしたら、また一緒に飲みたい、と思っていただけるか」であった。
なかなか考えがまとまらない。
お茶は、一人で、飲むこともできる。それをわざわざ出かけて、お金を払ってまで飲みたいと思うようになるのか。
ちょうど、食事をするのと似ている。ふつうは家で食事をする。でも、何か月も先まで予約がいっぱいのレストランに、苦労して予約を入れて、通い詰める。それを支えるモティベーションは、何なのか。
いろいろの要素はあるものの、ゆきつくのは、単純に「装飾のない、単純なおいしさ」である。そこそこのおいしさであったら、ある程度続いて飽きてしまう。味をいじって、新奇性で引きつけても、長くは続かない。「お茶会」でいえば、単純に「お茶のおいしさ」である。
この当たり前のことを実現させること。それを、「極上の」あるいは「自分しかできない」お茶のおいしさに、実現させることである。
ところが、ここに多くの人が、お茶を飲む場面で求める、「お茶のおいしさ」を阻害する要素が立ちはだかる。代表的には「お茶うけ」である。
お茶うけは、ほとんどの場合、お茶の味、香りを消す。どうしてもお茶本来の味を弱める。どんなに理由をつけても、お茶うけが「主」になり、お茶は「従」である。お茶の味、香りは「主」になることは大変むずかしい。
いろいろ考えたが、お茶うけを味方につけて、お茶をもっとおいしく、お茶を飲んだ時、それ以前のお茶うけを忘れさせるようにすればよい。当たり前のことである。
でも、この当たり前のことは、20年近くお茶をいれて、飲んでもらっていて、大変むずかしいことであるのは、いやというほど知っている。
だから、私のサロンのお茶を飲むクラスは、ずっとお茶うけを出していない。ただひたすら、お茶を飲むだけだ。お茶そのものの味、香りを知ってもらいたい、感じてもらいたい、その思いがあるからだ。
「お茶うけ」を味方につけて、よりお茶そのものの味を、おいしく味わい、感じてもらう。それを実現する構成をすることである。
もう一つ、「また来たい」といわれるものにしなければ……。
模索の日々は続いた。
話が長くなった。私が行きついた、私なりの目標とは……。次回に。