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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2013年7月15日

名人の「鱧」を食べて、極まる姿を見た

――「優しさ」を超えて、「いとおしさ」が…。

サロン風景の写真 移動の新幹線の中は、私にとって、原稿を書く場所である。電話、用事に邪魔されることがない。
新幹線の中で、ほぼ仕上げ、戻ってから推敲する。
ところが、今回は、書きながら寝てしまったので、戻ってから締め切りを目指して、苦労することになる。

 以前は、書くのが苦手で(今でも苦手だが)、いったん書き上げたら推敲などせずに、早く我が手から離してしまっていた。ここ数年で、やっと推敲らしいことができるようになった。それでも、下手は下手である。

 編集者として出版社に入社したころ、先輩から教えられてことの一つに、「読者を目の前において話すように書け」とあった。飽きさせることなく、こちらを注目して聞き続けてもらうことは、むずかしいことで、今でもむずかしい。

 中国茶をいれたり、いれることを教えながら、そのこととの共通性を思い出し、目標の一つにするが、なかなか難しいことである。
「相手」を常に意識することが必要で、お茶の場合でいえば、「おいしい」「ゆったりした」「いい香り」「いやされた」などの反応を求めて、いれたり、そのいれ方を教えている。

 大阪で、年に何度かおじゃまする和食の名店に行った。毎月でも行きたいのだが、予約が年末まで常にいっぱいで無理である。ずいぶん前に、ご主人から「7月の鱧(はも)を食べてください」と言われ、ここ数年、7月に行くようにしている。

 「鱧」は、関西に限る。スーパーでも骨きりをしたものが売られているように、関西ではポピュラーな夏のお魚だ。
 でも、名人たちは、それぞれで味、触感が違う形で、迫ってくる。
 幸いにも、今年はすでに2度、京都、大阪の名人のものを食べることができた。甲、乙つけがたいできであった。とくに印象に残ったのは、大阪の名人である。

 直前まで、大阪風に冗談を言ったりしていた人が、鱧をまな板に広げ、骨切り用の包丁を構え、「サクッ、サクッ」と心地よい、切れのよい音を立てながら、骨切りをしていく。たぶんミリよりももっと繊細な間隔で、皮の確実な手前で止めている。まさに「皮一枚残して」、切っていく。音、リズムがよい。安定し、おいしさを予感させ、安心させる。

 目の前に出された一人用の小さな土鍋で、沸騰したお出しの中に少しだけとどまらせて、身がきれいに花開いたようになったところで、つけ汁につけて食べる。

 今回の彼の鱧は、鱧をおいしいものと認識して40年以上の歳月の中で、3本の指に入るできであった。それほど印象深かった。
 骨があることをまったく感じさせない柔らかな触感、脂のちょうどよいのり具合、そこまでにもっていくあらゆるところに処された技術、すべてが一体となって、幸せな感じにさせてくれた。

 考えさせられた。そして感じた。
 この名人の作る料理が、他の人と違うところがどこか。

 「おいしい」と思う料理は、たくさんある。しかし、この人の料理を食べたい、遠く、通っても食べたいと思わせる料理は、どこが違うのか。
 今までは、それぞれの名人の「個性」という言葉で片付けてきたが、この頃ちょっと違うことを感じはじめている。

 うーんとうならせる料理には、どこかに主張する「鋭さ」「尖り」がある。わかりやすく言えば、フランス料理の塩づかいである。ギリギリまでの塩づかい、それが私の好みである。名人の主張が、そこに感じることができる。
 しかし、それは、辛さになってはいない。「優しさ」が全体を包むように迫らなくてはいけない。作り手の、食べ手に対する「心持ち」、材料に対する「心持ち」がそれを支配しているように思える。
 名人は、それを表現できる「技術」「技法」を身につけて、料理をしている。天才的な人は、教えられたり、努力したりすることなく、これを天性持っている。

 そこまでは、評価される名人として世の中にはある程度の比率で、存在する。
 それら名人たちを超える名人と私が感じる、それはどこにあるのか。
 今回、それがなんとなくわかったような気がした。

 私が今回、この大阪の名人の鱧を食べて感じたこと、そして見たこと。
 それは、「いとおしさ」である。「離れがたい、いとおしさ」である。それは、「色気」にも通じる。ただの「おいしさ」を超え、無理のない、包み込んでくれるような優しさを超え、まさに「色」ある「いとおしさ」である。

 お茶をいれる時、「限りない優しさ」を感じていただけるように、お茶をいれる。私の場合のふつの「おいしさ」を超えるところに、それがあると思っている。
 よい道具も、よいしつらえも必要ない。飛びぬけて上等な茶葉も必要ない。だから、少しくらいまずいお茶も、おいしいお茶に変えることができる。これは、私の場合で、他の方は他の方法があるのかもしれない。

 そして、今回、大阪の名人から感じたもの。それは、私のお茶をもうひとつ変えてくれるかもしれないものである。
 ただ、どうしたら「いとおしさ」をもったお茶がいれられるのか。もう少し、時間が必要だ。
 そういれたれた時、さりげない、しかし確かに存在する味、香りを感じていただけるかもしれない。

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