2013年8月1日
旅人は、勝手である――。
中国の地方に行くと、まだ古い、朽ちかけた街並みに出くわす。日本人の多くは、いっせいに、絶好の被写体として、カメラを向ける。
ノスタルジックな光景。旅人は、平気で「なつかしい街並み」「歴史を感じる風景」などと、感激しているが、そこに住む人たちは、早く近代的できれいな住まいに住みたいと感じていることが多いだろう。
「進歩」「発展」、一般的にいわれる「生活の豊かさ」を求めることが生む矛盾は、それを目指す時、目指すところには、必然的に生じる。
置かれている状況が違うことで、感じることは180度反対になる。
すでに、近代的な街並みに暮らし、その状況を享受しているものにしてみたら、失われた何かを感じ、美しさすら感じるかもしれない。が、現実にそこに住み、暮らす人々にとっては、そこから抜け出したい気持ち、貧しさと隣り合わせの思いを、日々抱えているかもしれない。
広東省英徳の街をバスで抜けながら、エネルギーいっぱいに変わろうとしている街並みに、そんな感じをまた抱いた。
お茶の世界も同じである。私たちは、今は「安全」ということを第一義に考えて、お茶のあるべき生産方法を指摘する。しかし、「経済的豊かさ」という以前に、「人並みの豊かさ」を求めて、「今よりも少しでもましな生活をできること」を目指して、少しでも収穫量をあげることにまい進する人たちもいる。その人たちを責めなければならなくなるとき、少しのとまどいと抵抗感が私にはある。
そんな思いとは、まったく違う動機で、今回は英徳を訪ねた。「英徳紅茶」、「茘枝紅茶」の畑や生産過程を見るためだが、じつは茘枝を食べに来た。英徳は、中国でも有数の茘枝の産地。そのおいしさを目指して、バスに6時間も乗ってきた。
茘枝を産地に直接食べに来たのは、2回目。15年ほど前に、「安溪鉄観音」を見ると称して、厦門を起点に、お茶の産地・安溪にも行ったが、厦門の西にある中国一の茘枝の産地・ショウ(サンズイに章)州に行った。古く唐の時代、中国大陸の東側から内陸の都・長安まで、楊貴妃は茘枝が好きで、取り寄せていたという。
茘枝は、今でも新鮮さが命と中国の人はいう。東の沿岸にも近いところから、遠い都まで、腐らせることなく、おいしさ、鮮度を保って、どうやって運んだのだろうか。
たぶん、現代中国で初めて我々のグループが、日本でいう「茘枝狩り」をやったのでは、と思う。我々のために、現地では、茘枝のシーズンは終わっていたが、木一本分をそのまま収穫しないでいてくれていた。
茘枝は、本当においしい時期の収穫期間が短い果物と聞く。2週間くらいという人もいる。そして、茘枝の収穫が終わって、ちょっとおいて「龍眼」の収穫へと移行する。
その大量に集中的に採れる茘枝ゆえ、残り、腐ってしまうので、それの果汁を活用して、現地で作られる「英徳紅茶」に吸着させて「茘枝紅茶」にした、という説明をずいぶん前に聞いた。
何度も、何度も、今年の茘枝の収穫期間を確認してくれて、行く日はOKであった。一人1sを用意する、といわれ、それはいくらなんでも多すぎる。おなかをこわすと、ちょっと恐怖だったが(ショウ州では、茘枝の皮をむいて爪の間に血がにじむほどの量を食べ、翌日みごとにおなかをこわした)、楽しみにしていった。
皆さんと合流する香港に着いて、前日の確認の連絡が英徳から入り、昨日で最上の茘枝は今年の収穫を終えた。ゆえに、用意はプライドにかけてしない、という連絡が入った。
変なところが、まじめである。ダマしてちょっと質の下がるものでも、私には十分なのだが……。
お茶の勉強と偽って来た報いかと思いつつ、きちっと「英徳紅茶」について学んだ。やはり現地に来なければわからないこと、今まで漠としていたことが、だいぶクリアになった。
香港へ戻るバスの中から、街道に店を出している茘枝売りを見つけ、バスに止まってもらって、買いに行ってもらった。私には、十分においしく感じた。よかった。
この時だけは、お茶よりも茘枝である。
(注)写真は、「英徳紅茶」の茶種のモデル畑。手前には、大葉種を中心に、栽培用に剪定された茶木があるが、それの剪定されない同種ものが後ろにある。高さは、4mほどになっていた。