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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2013年10月15日

「あなたのお茶が飲みたい」「茶葉、茶器が教えてくれる」

――そんなお茶のいれ方は、誰が教えてくれるのか

サロン風景の写真 そろそろ、来年の企画を決めなければならない季節になった。
 年間企画で行なうクラスがあるので、何を来年するのか。そのテーマを決めなくてはならない。
 私のサロンだけではなく、外部のカルチャースクールの講座なども、今の時期に企画決定の依頼がくる。

 私は、「企画を考えるのに時間をかけて」というタイプではない。
 考え始めて、間もなく閃く。一応、それでしばらくは迷うが、よほどのことがなければ、その「閃き」を超えることはない。
「閃かない」時は、考え続けても駄目である。そんな時は、1週間とか2週間とか考えない時間を置くと、何か別のことをやっている時、あるは見たこと、出会う人などによって、突然閃く。

 ただ、歳をとると、以前とはちょっと違ってきた。若い時は、閃いてすぐに企画書などに書いて、それでアウトプットしてきた。今、思うとずいぶん粗っぽい気がする。よくそれで世の中が許してくれた。でも、発想の勢いがあった気がする。
 今は、閃いても、しばらく迷うことが多くなった。結局は、もとの閃きであることがほとんどなのだが、しばらく時間を置くようになっている。
 結果、安全・安定した企画になることが多い。勢いは減った。

 原稿を書く時もそうだが、以前は、閃きから書き始め、筆がどんどん考えて、どんどん書き進んでいく気がした。今は、80%くらいは構築してから書く。そのあと、見直すこともする。
 以前は、書き終わったら、見直すことなどほとんどなかった。

 お茶をいれる時も、似ている。かかわる時間が長くなり、いれる回数が蓄積していくと、しぜんにそうなるのかもしれないが、ほとんど考えていれることがない。
 閃く、というよりは、何か別の力が働いて、お茶をいれている気がする。筆が考えて書き進むように、しぜんにお茶がはいっていく感じだ。

 いれ方を教える時は、しぜんにそうなる、という教え方はできない。そんな抽象的過ぎることなど言っても、教わる方は理解できないし、実践することができない。
 言葉にしなげればならない。実践して、説明つきで示さなければならない。
 教える時は、技術であったり、考え方であったり、向かう姿勢であったりする。そうしないと、伝えることはできない。

 教わる方が、ほとんど考えないでいれる、あるいは何か別の力があってお茶をいれることができるようになった時こそ、その人への教えることは終了する時だと思っている。
 その時の状況は、時々台湾のお茶いれ名人と話しをするが、どういれるかを「茶葉が教えてくれる」「器が教えてくれる」という状態だろう。お茶をいれはじめてから、はいるまで、いれる人を何かが導いてくれる、あるいは自分が姑息な考えで行動することなどがない状態だろう。
 いれる人は、その時、「どうしよう」「こうしよう」など考えることはない。

 この領域に至る人は、熟達者、あるいはすごい修行の後の達人ばかりではない。市井の人の中にだっている。
「xxおばあさんのいれるお茶はおいしい」といわれる、「おばあさん」こそ、この領域の人である。

 これを、「中国茶」という、種類が多様で、味、香りがいろいろありすぎるお茶の領域で、人に「教える」ことはむずかしい。
 だから教える側は、こんな面倒なこと、わけのわからないことを指導できないから、どうしても「形式」「形」「順番」「約束事を作っての約束事」などを教えることになる。無理もないことである。

 教える人がいないから、たとえ限られた特定のお茶でおいしくいれられても、あるいは偶然おいしくいれられても、中国茶の広い領域であまねく、「xxさんのお茶が飲みたい」という、しかも飽きることなく、長い年月その思いを続けてもたれるお茶を、コンスタントにいれるところまでに到達するには、自分で苦労してやるよりしょうがない。
 何十年もかかりそうな気がする。「教える」ということ、「教わる」ということ、その行為の意味の中には、その何十年を少しでも短くする作業であるような気もする。

 だれが教えられるのか。
 残念ながら知る限り、中国茶の領域では、その目標・ゴールをきちっと把握識し、そこに至るロードマップを認識しながら教える人は、世界にいない。
 教育カリキュラムも、もちろん存在していない。
「xxさんのお茶が飲みたい」、「茶葉、器が教えてくれる」などと言った、メカニズムに気づいた人が、後に続く人々を教育する義務があるとも思えるのだが……。
 

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