2013年11月15日
「せっかちなお茶」。
私のいれるお茶は、そうかもしれない。このところ、とくにそうなってきているかもしれない。
歳をとってくると、物事の決断や行動が、それまでの人生の歩み方とは違って、大きく二つのタイプに分かれていくような気がする。
一つが、「せっかち」。もう一つはその逆で、「のんびり」。
元来、私はどちらかというと「せっかち」である。
若い時からずっと、物事を決める時も、判断する時も、あまり考えもせず、勘を頼りに「即断」することが多かった。意思決定だけではない。歩くスピードも人よりは相当早かった。
ご飯を食べるのも、人並みはずれて早い。あまり噛むこともせず、「飲み込んでいるの」と人から言われるほど、早い。ほぼあたっていて、ほとんど噛んでいないかもしれない。
でも、「おいしい」「まずい」だけは瞬時に判断できる。「よく味わって」などといわれるが、十分味わっている。
歳をとると、それまでの人生のスピードから変化する。それがよくあることだとすると、私は、確実に「せっかち」を加速させている。
時として、他人の仕事の進め方、決断のスピードだけではなく、食べるスピードにも「いらいら」することが増えた。昔からも「今でしょう」の人だったのが、より一層「今しかないだろう」、「何もたもたしているのか」と、より一層感じる機会が増えた。
良いことか、悪いことか、どちらとも言えない。残りの人生の時間を考えたら、良いことのような気もする。やるだけのこと、やっておけることを少しでも多くできることになる。
というよりも、性癖なので、変えることもしにくいし、このスピードが性に合っているので、あまり変えたくもない。
別の見方をすると「短気」が、一層短気になった。
そうは言っても、逆に「気長」にしなければならないことも増え、それができるようにもなった。大きくは二つ。「ものを教えること」とする時と、「人を使う時」である。
今の私の生活でいうと、「茶藝を教えている」時は、教わる側が出来るようになるまで、忍耐強く待つことをしなければならない場面がある。その時は、堪えて、待つ。
もう一つは、「人を使う時」。これは、40歳を過ぎてから、そうしなければならない場面が増えた。会社などで仕事をしてもらう時に、よくあることで、人は思いどおりには、なかなか動いてはくれない。でも、仕事をしてもらわなければならない場面では、じっと我慢して、待つことをしなければならない。
でも、今は会社の経営や管理をやっているわけではないので、ずいぶん減った。助かっている。
私がいれるお茶は、より「せっかち」になったのだろうか。
私のいれるお茶を以前から飲んでいる人は、ほとんどそうは感じていないはずである。
それは「歳の功」といえるかもしれない。そう見せない「技術」、雰囲気づくりが、加齢とともに、自然に身についたのだろう。
でも、細かなところでは、確実に「せっかち」になっている。
茶葉を入れ、そのあと茶器にお湯を入れる。その時の抽出の時間が、待てない。
そこで、お湯を揺すってやることを、お茶をいれるのに使う蓋碗の蓋を使ってするようになった。ずっと以前からもそうだったが、最近は前にもまして、頻繁になっている。抽出する時間が、待てないのだ。
蓋碗の蓋を使ってのこんな動作、現代茶藝の発祥の地・台湾でも、中国でも存在しなかった。でも、今ではけっこう見ることもある。
お湯を揺すって抽出時間を短くしていることは、うまくしたもので、サラリとお茶をいれることが、私のいれるお茶のスタイル、リズムになっているので、さほど悟られてないと思っている。
だが、そう感じているのは私だけで、見ている人は「せっかち」と感じているのかもしれない。
お茶が早く抽出されることは、必ずしも悪いことばかりではない。料理と同じで、「手際良く」お茶がはいるようになり、温度も高いままに扱うことができ、「おいしさ」に通じることに直結している。
出されるお茶が、温度高く、ということは、「香り」をより感じやすい状態で、お茶がお客様の前に出されることになる。
それは、お茶の丸みがある中で、キレを良く感じさせる効果もある。
結果、お茶をいれ、飲み、味わう、あるいは楽しむ、という一連の動作、雰囲気の中で、「せっかち」は、決して悪いことではない。それは、私のいれるお茶のスタイルとなり、持ち味となって、「せっかち」を感じさせないようになっている。
と、勝手に私は思っているのだが……。そのスタイルを、強要されている人たちにとっては、迷惑な老害になっているのではないか。それは、私はおかまいなしでスタイルを貫いている。
本当に「老害」の典型だ。