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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2013年12月1日

予感させる器がやってきた

――「墨分五彩」、そのとおりの色の変化

中里太亀さんの器の写真「魔法の黒い蓋碗」の話は、asahi.comの連載の時に書いた。
 お茶を蓋碗でいれる時、お茶が抽出されたお湯の色(水色)を一つの手がかりにいれている。
 白磁の蓋碗を使うことが多いので、水色は、慣れさえすれば、見分けることができ、おいしくお茶をいれる手法として使うことができる。

 黒い蓋碗。唐津の中里太亀さんの展示会で見て、私が買うべくして並んでいた。器にしても、絵にしても、「買ってちょうだい」と言わないまでも、私が買う運命を暗示しながら飾られていることが多い。
 そして、この作家は茶碗蒸し用に作った「蓋碗」こそが、そののち私のサロンでちょっとしたブームになった。

 おいしくいれる手がかりの水色が見えない。蓋湾の中は暗やみである。
 勘に頼るしかない。あるいは、「もう出してください」とこの蓋碗が教えてくれるようである。
 ほとんどの人が、ほとんどおいしくはいる。どんなお茶も。

 そんな縁もあって、中里さんが中国茶に興味があられたこともあり、何かと行き来をするようになった。そんな仲が続いているのは、中里さんご夫妻の人柄もある。一緒に居て、こんなに心地の良いご夫婦は少ない。「気持ち良くなる」ご夫婦である。

 11月下旬、新宿の伊勢丹で、中里さんの展示会があった。
「私のために作ってくれた」と思える作品があった。写真の左、ポットの下にある「炉」である。
 私がずっと使っている台湾・陶作坊の黒いポットと黒い炉のセットを、中里さんは一度だけしか見ていない。サロンに来られて、お茶をご一緒に飲んだ時、ほんの一瞬しかご覧にならなかったはずである。
 展示会では、唐津三島の炉が、すでに私の器のように並んでいた。私以外に買う人は、許されない思いがした。
 だから、太亀さんが「私のために作ってくれた」、と太亀さんはそういうつもりはなかったかもしれないが、勝手にそう思った。炉に乗るポットは、使っている陶作坊のもの。大きさがぴったりかどうかの心配よりも、一刻も早く持ち帰りたい気分になった。

 持ち帰ってみたら、写真でご覧のとおり、大きさはこのポットが乗る、ちょうどの大きさになっていた。
 たいしたものである。たった一回、触りもしない、見ただけの大きさのものを、それにぴったりの大きさに作りあげる。
 中里さんのすごさを、また感じた。

 展示会で上京された今回、もう一つの器を持参された。写真の右側にある、黒の茶壺(急須)である。
「使ってみてほしい」とのことであった。
 以前、ご自分でお茶をいれるために、急須を作って失敗した、と話されていた。今回、作ってみたという。
 ふたたび、「黒」の器である。
 姿に、太亀さんの気品と存在感が感じられる。
「黒」の色は、前の茶碗蒸し用の「黒の蓋碗」よりも、少し青みを感じさせるが、黒である。
 おいしくはいる「予感」である。
 お茶をいれてもいないのに、思い込みを通り越して、そんな確信がわいてくる。

 使い始めるのに、なんとなく、丁寧に下準備をしないといけない感じになった。初めてかもしれない、こんなことを感じるのは。

 また使っていないのに、故宮をはじめとする研究機関、大学の先生もやっている龍さんが見えられた。陶磁器、書などにおいては、キュレイターとしてもご活躍である。
 黒の茶壺を見て、龍先生はどんな反応をするかと思って、目の前に出した。
 龍先生は、以前「黒の蓋碗」でお茶がおいしくはいる、その不思議な魔術にほれ込んだ一人である。

 茶壺を撫でるように見て、角度を変え眺め、手のひらに乗せて遊ばせるように触りながら、ひとこと言った。
「『墨分五彩』という言葉を知っていますか。」
「書の墨は、よい墨がよい書き手の手になり、文字になり、乾いた時に、「五彩」になるといわれ、こう表現します。角度や光線、書き手の濃淡などで、黒一色だったものが、黒、青みがかった黒、茶色がかった黒などに見えます。
 この茶壺の黒は、まさに「墨分五彩」。うつくしい器、焼きあがりですね」、と。

 当然のことながら、不勉強な私は「墨分五彩」という言葉を知らない。
 これを聞いて、この器は、お茶を「五彩」にいれることができるのではないか、と思った。
 どんな「五彩」になるか。楽しみである。
 この「墨分五彩」という言葉。中里太亀さんにも知らせなくては。すでにご存知なのかも。

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