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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2013年12月15日

「おいしい」という自己表現のむずかしさ

――「幸せ」と言われるお茶が、ゴールか

サロン風景の写真 早、師走も半ばである。
 また、来年もサロンを続けることにして、すでにご案内も11月には出来、お知らせも終わった。ここ何年も、年末には通常の掃除しかできず、茶葉の整理や、しっかりお掃除もできないまま年を超していた。今年こそしたいと思うが、手帳を見ると、ほぼ絶望的かもしれない。
 今から、「ダメかも」と思っていることは、「やらない」という宣言に近い。モノで溢れるまま、今年も年を超すことになる。

 11月の終わり、上海に行ってきた。久しぶりである。
杭州に入って、午後にお茶関係の情報集めをして、その日のうちに上海に移動して、と思っていた。が、杭州行きの飛行機が、トラブルで機材変更になり、4時間半遅れの出発となった。
 その決定の時点で、杭州での用事を諦め、上海行きの便に変更してもらった。上海で、一日で用事を済ませ、翌日には帰国、という相変わらずのスケジュールである。

 私が上海便への変更をしている間、他の搭乗客は航空会社が用意した昼食をとるために、搭乗口からはいなくなった。が、中国人5〜6人のグループが、航空会社のスタッフと大声でやりあっていた。
 どうやら、大幅に遅れるのだからお金を出せ、と言ってもめている。ボスらしき人が、すごみを効かせてまくしたてている。
 国際線で、大幅遅れがあるのはたまにはあることで、いろいろの国で、いろいろの航空会社の対応にであったが、食事代など以外にキャッシュを出すのは聞いたことがない。オーバーブッキングの時は別だが。

 上海で聞いてわかったが、このところ中国国内線では、遅れるとお客にキャッシュを払って解決するそうだ。その相場が、200元。
 こんなやり取り、対応に、国際常識があるかどうかはわからないが、まず自分の、自国の常識を主張する。今の国際間のやり取りから、何となく「中国らしい」と感じるのは、私の色メガネだろうか。

 中国の人たちも、今、国際化の途上にあり、いずれ何となく国際常識をもつ、と考えたいが、そうはならないだろうと思う気持ちが強い。もちろん、今でも国際常識をもった中国の人も多くいる。
 2000年以上に及ぶ、「他を信じることができない」「疑いからスタート」するDNAは、中国が豊かになるにしたがって、それを外部にあからさまに出し始めてきた。
 繰り返すが、すべての中国人がそうではない。見識ある、一生の友とできる中国人もたくさんいる。

 そんなことを感じている時、エッセイスト、画家、料理評論家、そしてワイナリーのオーナーなどとして、多才を際立たせている玉村豊男さんと、しばらくぶりに京都でご飯を一緒に食べた。
 その中で、彼がこんなことを言っていた。
「この頃のレストランは、料理人が『これこそ私の技』と、これみよがしに押し出すことが増えている。確かにおいしいのだが、それは心からおいしく感じる料理になれない。気づかぬところに、技がさえわたる料理、技を感じさせないが、身体が、心が『おいしい』と感じる料理、本当に減ってしまったね」。

 お茶をいれることに例えると、茶藝が広がってから、技や趣向が前面に出てきて、それでお茶をいれることが完成されたような傾向になっている。そういう教育にもなっている。
 たしかに、ある程度熟達すると、おいしくはいるようになる。しかし、そのおいしさは、時間を経るに従って、忘れ去られることが多い。
 本当に、「おいしい」と感じるものは、飲んだ瞬間には「おいしい」と感じるよりは、「違和感がなく、自然」であったり、「幸せ」と表現する方が、「おいしい」よりも勝ることが多い気がする。

「おいしい」と言われるより、「幸せ」と言われるお茶をいれること、それがゴールかもしれない。
 技だけではダメ。いれる人の人間性、文化、知性…。それが加わってもまだダメ。飲む人の人間性、文化、知性などが相まって、「おいしさ」は極まるのかとも思える。
 極まるところにくると、いれ手は「この人のために」と思うようになるのかもしれない。それが、「おいしいお茶」が普遍性をもつ瞬間かもしれない。

 飾る必要もない。誇る必要もない。ただ普通の人と人。
そう見ると、いれ手がいくら頑張っても、飲み手がそれに値する人でないとむずかしいとも思える。そんな人には、めったに出会えない。
 知識でも、お金でも、経験でも、年齢でもない。人間として、好きになれる、一緒にいて気持ちのよい人。本当に少ない。それが「お茶のおいしさ」が普遍化しない、一番の理由かもしれない。

 絵画や小説など形の残るものと、料理やお茶との感動の違いは、「美しい」「おいしい」などと魅力を感じた時、料理やお茶はその瞬時に消えることである。だから、永遠に記憶に残ることは、むずかしい。
 しかし、瞬時なるがゆえ、脳のどこかにすばらしいものが、ある場合はより誇張されてインプットされることになる。絵画などの、残されたものを再び見たり、読み返す時の感動よりも、「おいしさ」は、永遠に身体のどこかに強く残るようにも思える。

 瞬時なるがゆえに、永遠――。

 そんなお茶がいれられるのか…。
 また、お茶をいれ続けている。

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