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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年2月1日

年初は、おいしさとお茶の思い出の香港から

――年間企画「プーアル茶」は、予想以上においしくなっている

プーアル茶の写真 早や、4月からのクラスの案内を出すことになった。以前は、3か月ごとにクラスのスケジュールを決めていたが、昨年あたりからは翌年一年分を、前年の11月前には決めている。もちろん、微調整もあるが、ほぼそのスケジュールで動くことになる。
 そう決めるようになったのは、いくつかの理由がある。お茶のクラスの事情ではなく、他の要素による。

 一つは、大阪、京都での毎年3から4回行くことにしているお料理屋さんの予約が決まってしまうからだ。翌年の予約は、10月くらいには決まる。そこで決めないと、それらのお料理屋さんは、翌年分は予約でいっぱいになってしまう。あの「おいしさの幸せ」を感じることは、私にとっては代えがたいものなので、予約を早く受けてくれるだけでも幸せだ。翌年末までの予約を入れ、翌年の大阪、京都行きのスケジュールが決まってしまう。

 もう一つは、海外行きの飛行機の予約が300〜330日くらい前から、安い航空運賃のブッキングが可能になったことである。たびたび書いているが、タイトな日にち時間で、効率よくたくさんのところを回らなければならないので、近づいてから希望のフライトが取れないと、滞在日数を延長しないといけなくなる。
 そうなると、クラスのスケジュールを直前で変更しなければならなくなるなど、他に迷惑をかけたり、影響が出てくる。だから、早くにフライトを取る必要があり、出張できる日にちをクラスのスケジュールとにらめっこして、決めてしまうことになる。

 三つの理由は、歳をとったからだろうか。以前も書いたが、確実に「せっかち」になっている。お茶をいれるのを教えるときは、「もう少し、ゆっくり、ゆったりと」と言っているくせに、自分は早く物事が決まらないと、あるいは進まないと落ち着かない。

 今年に入っても、余裕のない日々が続いている。
 そのスタートは、年初、4日間の香港出張である。お正月期間は飛行機運賃が高いので、安くなる4日からお正月休み返上の旅である。
 元旦、2日は掃除を含めた家の用事をこなし、3日には茶葉を整理して、膨大な量を捨てた。

 そして、クラスの年間企画で使うために、プーアル茶のストックを確認し、飲む順番を決めた。
 その過程で、気づいたことがある。
 私は、プーアル茶のマニアでもないので、買いとどめて、ストックを増やすつもりなど毛頭ない。でも、なぜか溜まって場所をとる一方である。円盤形やブロック形など不定な形が多く、余分なスペースをとる。
 ふつうの茶葉のように、どうしようもなく溜まったら、整理して捨てるとスペースは出来る。が、プーアル茶は捨てることができない。いくらまずいお茶でも、「あと十年後、あるいは何十年後にはおいしくなるのでは…」と思わせる。捨てにくいお茶である。だから溜まる一方、場所をとる一方でどうしようもない。

 思えば、中国茶にのめり込むルーツは、香港への「おいしい中華」を食べる旅からである。年に最低でも2回、多いときは4回くらい通った。ほぼ15年以上続いた。もう30年以上も前のことである。
 そしてレストランで出される「プーアル茶」。広東語の「ポウレイ」という発音もすぐに覚えた。

 おいしいプーアル茶を買い求めるため、街中のお茶屋さん、中国系デパートのお茶売り場などを歩いた。当時の私には、ヴィンティジ物の固型茶など関係ない世界であった。日常、香港の人たちがふつうに飲んでいる、プーアル茶のおいしいのが欲しかった。
 一斤(香港では600g)数十円のものから、高いもので数千円であった。量り売りされているのは、散茶のみであった。でも、この二桁違う価格差は、当時の私にとってはすごい差に思えた。
 そして、おいしさをはずさないプーアル茶の買い方を見つけた。なんてことはない、ショウケースに並んでいる中で、たくさん減っているお茶を買うことだった。たいていの場合、安い方から2番目か3番目くらいであった。ほぼ外れることない、庶民の知恵を拝借した買い方だった。

 そんな思い出のある香港も、中国への返還後は足が遠のいた。お茶の入手が上海を中心としたところに変わったこともあるが、一番の理由は、「おいしい食事」から香港は少し遠のいたからだった。多くの優秀なシェフが「香港を離れた」。
 数年前から、食べ物好きの香港好きから、「味が戻ってきた」と聞いていた。2年前から、また香港通いを再開した。

 地下鉄の早いスピードのエスカレーターに乗って、「香港に帰ってきた」と思った。しかし、あのせわしなく、せっかちな香港人も、パジャマで街を歩くことなどしない、おしゃれでゆったりした香港人に代わっていた。
 噂に聞いていた「私房菜(プライベィト・キッチン)」にも、何軒か行って、感激したもの、失望したもの、両極端を体感した。

 そして今年、お茶は「六安茶」の茎茶を買うための目的で、香港に行った。
 過去2回行って、2度味が違っていた「私房菜」の「黄色門厨房」も、また違った味だった。が、おいしさは今までで一番だった。「辛さの中の甘さ」、この逆説的な四川料理の極に、またまた脱帽であった。
 広東料理の私房菜「留家」は、場所が変わっていた。変わった先は、「もう私房菜とは言わせないぞ」というほど、広く、大きなレストランに変わっていた。今のところおいしさは健在だが、この規模でおいしさを維持していけるのだろうか、と疑問になった。

 そして、年間企画「プーアル茶60種を飲む」はスタートした。1月は、1997年〜2000年のお茶5種。おいしい。生茶が一つだけ入っていたが、まだ青さが残る中でのおいしさをもっていた。
 ほぼ年数が近いところのものだが、すべて味は違う。主張が激しいものはないが、それなりの丸さの中に、奥深さがあったり、爽やかさがあったり、甘さがあったりと、みんな良いところが見える。
 この中の3種類は、5年前にも飲んでいるが、確実においしくなった。なかなかおもしろい。

 プーアル茶の年代もののおいしいものを飲んでいつも思うのだが、「こんなふうに歳がとれたらよい」と、今回も思った。どれもがよい状態のお茶であった。「カビ臭さがほとんどない」、とプーアル茶をそれほど好まない人も、「おいしい」と言ってくれた。
 存在を主張するでもなく、飲んだ時、自然に口から流れ込み、のど越しがよく、サラっと入っていく。頼りなさそうだが、どこかに存在が記憶として残っていく。
 また飲みたい、また会いたい、としばらくして思わせる。そんな余韻がいつまでも続く。
 言葉はいらない。至極の時、空間、思いが続く。

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