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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年2月15日

別れが決まっているお茶

――魅力的なゆえに、心残りが……

サロン風景の写真 味、香りの世界で、「復活」というのは、実にむずかしいような気がする。
過去に出会ったお茶の中で、「すごい」「おいしい」と脱帽したり、賞賛したり、のめり込んだり、惚れ込んだりしたお茶は、世代交代だけではなく、いろいろの事情でほとんどが、名前は残っても、ダメになったり、消えていった。
それらのお茶が、同じ作り手で、あるいは後継者の手で、復活をとげた、という体験をしたことはほぼない。20年を振り返っても、皆無と言ってよい。

お茶の世界ではそんな作り手に出会っていない。が、料理の世界では、ご本人の努力や才能で、ずっと評価を継続させる人は、数は少ないがいる。その中には、出会うたびに、「どこまでおいしくなるのだろう」と、無限の可能性を感じさせる人も、ほんとうに少ないがいる。

味、香りが落ちて、「このお茶はもうダメだ」、と思っても、「今度のシーズンこそ大丈夫かも」ということで、しばらく買い続けるが、それでもダメで諦めなければならない時、なんとも言えない寂しさがある。
ドラマや小説などでも、今どき「叶わぬ恋」などはやらないので、感じる人も少ないかもしれないが、もう体験することのできない、会うことのできない寂しさは、かなり私にとっては大きなものである。

 20年、そうしたお茶は、その後継者を含めても復活したことがない、と書いたように、「永遠の別れ」となってしまう。ただ私の中の記憶に残るだけである。
 そして、年寄りの常套句、「昔のお茶は……」となって言葉に出る。聞く方は、体験もしていないから、それがどんな意味や価値を持つかは想像すらできない。
 味、香りの世界では、ともに体験すると、双方向のコミュニケーションは成立するが、体験を共有できない場合、時によってはただの「思い出話」か「自慢話」になって、ちっとも聞き手の共感を呼ぶことにはなれない。場合によっては嫌われてしまう要素にすらなる。

 お茶の世界で、一度ダメになったものの復活が、とてもむずかしく、不可能に近いことが重なると、もう中国茶とのかかわりをやめてしまおう、と思うことになる。過去何度もあった。
 以前にも書いたように、そんな時に「おいしいお茶」が私の前に現れてくるので、今もって中国茶を続けている。

「出会う」ということは、偶然に思える。が、必然でもある。
「会おう」と思っても会えるわけではなく、行動していてどこかで「会える」のである。なにげなく、動いている時が多い。作為的であっては、なかなか会えない。

 今年のサロンでの企画「おいしい中国茶を飲む・銘茶60種を飲む」については、前にも書いたように、日本で中国茶を体験できるお茶の種類が、どんどん少なくなってきていることを、何とか少しでも多く体験してもらおう、という企画で始めた。

 昨年秋も遅く、その下調べのつもりで、杭州・上海と、茶舗や茶市場を歩いてみた。
 そんな中で、入手してきたお茶の中に、「へー、こんなおいしいお茶もあるのか」と思わず皆さんと感動したお茶があった。
「麗水毛峰」。
 試飲して入手したわけではない。もらったお茶でもない。どこで入手したかも覚えがない。
かすかな記憶でいえば、歩いていて、「魅力的な茶葉では」と思って、軽い気持ちで買ったような気がする。「閃き」だけなので、期待もしていなかった。

 1月にクラスがスタートして、2月の準備の時、このお茶が出てきたので、飲んでみた。
 上品で、清らかな緑茶である。過去体験したこのタイプの緑茶の中でも、清らかさにおいてはピカイチである。淡い味でいれたが、それがなおこのお茶を「麗人」のように感じさせる。あと味も、上品に淡い存在感をもって残っていく。

 期待もなく、買った記憶もないくらい、なにげなく入手したので、どこの産で、どういう作り方でなどということは取材していない。

「雲南毛峰」は、今では知る人にとっては春を感じさせるおいしいお茶だが、銘茶ではなく、どこでどう作られるのかも未だによくわからない。
 それと同じで、このお茶も、毎年続けて飲み続けたいお茶だが、どこで入手できるかもわからない。
「麗水」は、浙江省にある「麗水市」であろうと想像はつくが、麗水市の行政地域は広い。
 麗水市の中には、「松陽銀猴」や「遂昌銀猴」といった銘茶をはじめ、お茶が作られているところはたくさんある。このお茶がどのあたりで作られるかは、手元の文献にも名前すら出てこない。

 ふたたび買おうにも買えない。今回、たった一回きりの出会いかもしれない、ピカイチのお茶。
 そのことが、このお茶をなお「麗しく」させているのかもしれない。
 別れが決まっているお茶……。

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