2014年4月1日
ひと時代前と言ってよいか、ひと昔前と言ってよいか、「カリスマxxx」という言葉がよく使われた。このところあまり聞かない。
そういう存在が減ったのか、流行語としての賞味期限が切れてしまったのか、両方のような気もするが、ほとんど使われることはない。
思いおこしてみると、そう呼ばれる人たちには、共通した「何か」があった。もちろん、その領域での「知識」、「技能」などは、通常の卓越した人以上に持っていた。しかし、それにプラス何かを持っていた。あるいは、感じる何かがあった。
昔やっていた仕事の関係で、多くの経営者に会うことがあった。その時には「カリスマ経営者」などという言葉はなかった。が、優秀な経営者には、独特の「オーラ」あるいは「輝き」のようなものを感じた。同業のある人は、強い「気」を感じるという表現をしていた。
「カリスマxxx」や「優秀な経営者」たちの外界に放す「何か」は、力強い、あるいはポジティブな「オーラ」、「輝き」、「気」である。しかし、宗教家のそれは、ちょっと違うような気がする。
高位ではあるが、最高位ではない宗教家たちは、「威勢」をもってそれを出そうと努めているような人もいるようだが、本当に「惹きつける」と感じる宗教家たちは、どちらかというと、「丸い」「やさしい」と感じる「オーラ」や「輝き」を持っているような気がする。「慈悲」みたいなものだ。
学者の世界も、それと同じようなことを感じる。どんなに知識的に高く評価されるような人でも、「オーラ」や「輝き」などを感じない人はたくさんいる。
何万人の人々と会ってでの感想ではないので、私見も私見、私の感じたことで、普遍的ではないことも重々承知である。
でも、皆さんも、そんなことを感じることがあるだろう。
「オーラ」「輝き」「気」を感じさせる人は、言葉を変えて表現すると、「魅力を感じさせる」人、あるいは「惹きつけられる」人、「一緒に居たい」「同じ空間にいることが楽しい」、ある場合は「癒される」人である。
なんでこんなことを話題にするかというと、日本の中国茶をとりまく世界に、「オーラ」や「輝き」、「気」などを感じさせる人が、もっともっと必要だと思うからだ。
今、日本における中国茶が、ますます魅力が薄れていく。そんな気がしてならないのだ。
20年ほど前、日本における中国茶の普及期、あるいは中国茶が鉄観音、烏龍茶だけではなく、多様性をもって広がりをみせたころ、それを担った人たちは、「何かの勢い」「情熱」「元気さ」があった。それを担っていることが、彼ら、彼女らの喜びでもあった。
普及期には、担う人はそんなものであれば、十分であった。知識なども、「走りながら、考える、体験する」ことでよかった。
しかし、普及期が過ぎると、そうはいかない。「目新しさ」から、本当の「味わい」や「魅力」や「知識」「技能」といったものがある程度必要になり、それを牽引する人には、「カリスマ」といわれたような人たちの持っていた、「何か」が、それらにプラスして必要となってくる。
そういう人がいない分野は、次第に「魅力」が薄れ、人々は離れて行ってしまう。
今、日本の中国茶は、そんな時期にさしかかっているような気がする。
お茶の味、香りの良さはもちろん、知識、技能も超え、「何か」を発散する「カリスマ」の存在こそが必要だ。
どうしたら、そういう人が登場するのだろうか。
それを阻害している一つの要因が、画一的「茶藝」の教育にあるかもしれない。先生の言われたことを、言われたように習得することがゴールになってしまっている。
その教育の中では、生徒が先生を超えることを多くの先生はいやがるし、かといって多くの先生自身が「カリスマ」的な魅力をもっているわけでもないので、なおいけない。
教わる生徒も、もっと枠から飛び出るエネルギーを持たないと、あるいは感じ取らないといけないが、そういう人はほとんど見ることはない。
そういう状況を作る要因には、多くの人が中国茶だけに興味を集中させることにある。広い知識、視野、体験、興味などから、カリスマとしての輝きは出てくる。個性があることが、カリスマの条件でもある。
中国茶を教えたり、話したりすることを担ってきた一人として、今、反省とともに、日本における中国茶の危機を感じる。
日本中になり響く名声である必要はない。井戸端のヒーロー、ヒロインでよい。
中国茶のおいしさ、楽しさ、いろいろの要素の一つでもよい。声高く、輝きをもって語れる人、実践できる人、伝える人……。出てきてほしい。
出でよ!「カリスマ中国茶達人」。
その芽を持っている人は少なからずいるのに、なかなか気づいてくれない。