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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年7月1日

「何か」を求めて、台北「天空の茶会」

――「この人のお茶が飲みたい」、と言われ続ける存在になるために

「天空の茶会」の写真「天空の茶会」。
 台湾まで出かけて、そう名づけた茶会をやってきた。
 私が行うのではなく、私の「茶藝」のクラスで、上位のクラスの方。その中でも技術的にも、パフォーマンスとしても、到達の域に近づいた、あるいは達した人たちが、「お茶をいれ」、「お客様と一緒にお茶を飲む」ことをするために、台北に行った。

「あの人のお茶が飲みたい」、「あの人と一緒にお茶を楽しみたい」、と言われる「お茶のいれ手」になるのは、むずかしい。
「あの人はお茶をいれるのが上手だ。おいしい」と言われるところまでは、教え方さえしっかりしていれば、誰でもとは言えないが、ほぼ到達できる。教える側の私は、この頃では自信をもってそう言えるようになった。
 自信を持って、そこまでは教えられる、と言えるようになるまでに、15年以上の時間が必要だった。

 しかし、それはあくまで「おいしいお茶」がコンスタントにいれられ、「魅力ある茶藝」ができるようになるまでである。

 おいしいレストランの食事と似たところがある。
「おいしい」と思えるレストランは、今ではたくさんある。しかし、なぜか、何年にもわたって通いつめるレストラン、そして一生通ってもよい思えるレストランと、いつの間にか行かなくなってしまうレストランがある。
「あの人の料理が食べたい」と思えるレストランは、毎日行っても、そして何年にもわたって行ってもよい、と思えるレストランだ。

 繰り返すが、「あの人のお茶が飲みたい」、「あの人と一緒にお茶を楽しみたい」と言われるお茶のいれ手になるには、技術などの要素に加えた「何か」が必要である。

 私の「茶藝」のクラスで、「プライムコース」と呼んでいるコースに入る時に、必ず言うことがある。「最終段階は、今の私には教える方法を持たない」、と言っている。教えられないことの了解をもらっている。

 その最後の「何か」を習得し、「あの人のお茶が飲みたい」と言われるお茶が、いれられるようになるには……。

  前にも書いたことがあるが、20年近く前、台北の今や有名レストランになった「豊華小館」ができた時、オーナーシェフ唐さんと出会った。私が尊敬する台北のお茶人の紹介であった。古く、拙著にも紹介したが、今でも通っている。

昨年春、新しく店を作ったので来てほしい、と話があった。
 行ってみて、驚いた。行き着くまでに店に何度も電話をし、道を確認しなければたどり着けなかった。山の中である。どこで曲がるのか、看板もなかった。

 そこに彼は、10年近くをかけ、レストランを作った。庭、そして茶室もある、素敵なレストランである。料理も、「豊華小館」とは違った、創作的な中華料理であった。
 薄暮に訪ね、住まいも含めた中を案内してもらい、天井の高い、三方を天井までの窓に囲まれ、庭の美しさを見ながら食事ができるレストランで、夕食をとった。
 暮れゆく中で、庭の向こうに、細長い茶室の建物。その中に、黄色の光にうっすらと浮かんだ細長いテーブルが、御簾の向こう側に見える。

 この雰囲気に、「何か」を見つけた気がした。
 励んできた技術の習得。美しさ、魅力を磨いてきた茶藝のパフォーマンス。それら、これらを当然のこととして超え、そして、その人のもつ「自然なお茶」しかない世界。
 それまで、努力して身につけた「力」や「技」や「自信」や「誇り」などを超えたところで、自然にいれられるお茶。そこに、求めている「あなたのお茶が飲みたい」、と言い続けられる世界、舞台があるのではないか。
 まさに、この空間こそが、それを実現するためのヒントとして、あるのではないか、と思えた。

「天空の茶会」。
 そう名づけたのも、空に浮かぶ雲の上で、お客でもなく、主人でもなく、ただお茶をさりげなくいれ、飲み、言葉も交わすことなく、お茶を飲むことで心が通じあえる世界。
 そして、通じ合う時、それこそが「あなたのお茶が飲みたい」、と言いつづけてもらえる域に達した時ではないか。
このお茶会は、それを、体験してもらいたかったからである。

 その時のお茶。それこそが、至福を感じるお茶。そして最上のお茶。

 お茶をいれた人、11人。そのお茶を飲んだ人、20人。それぞれは、「何か」を感じてもらえたのだろうか。
 お茶をいれた人の一人が、メールをくれた。
「お茶がおいしくはいった」でも、「お客様がよい方で」というお茶会後の常套句ではなかった。

「お天気は曇りだったけれど、お茶をいれながら細長い窓から見えた、地平線の横に広がる一筋の光の美しさが印象的でした」と。
 じつは、請われて私もお茶をいれた。はからずも、私はお客様ではなく、その向こうの地平線の光の美しさを見ていた。はいったお茶は、限りなく清らかだった。

 彼女は、その「何か」をつかんだのかもしれない。

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