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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年8月1日

私が中国茶を続けている所以

――あこがれの呼称、「好事家」

サロン風景の写真「どうして中国茶をやっているのですか?」。「中国茶のどこが好きですか?」。と、何度聞かれたことだろうか。
 20年間、ずっとその質問には曖昧なことしか答えてこなかった。あるいは、明快に相手が納得できるような答えは、したことがなかった。

 そんな答えしかしなかったのは、私がなぜ中国茶が好きなのか、続けているのかが、私自身よくわからないからである。ただ一つだけ言えるのは、「おいしい」と思う中国茶がある、ということだけかもしれない。

 質問する人は、かなり中国茶にのめり込まれている人であったり、中国茶への愛情がヒシヒシと伝わってくる人が多いので、私からの答えもご自分の「思い」と共通のものを期待されているようである。だから、「皆さんほど深く中国茶が好きなのではない」、あるいは「それほど私の人生での重きは置いていない」などとお答えすることは、その方の期待を裏切りそうで、怖くて、ついはぐらかせてしまう。

 では、「中国茶が嫌いか?」と自問してみても、そういうわけではない。私の興味のあるものの中の一つである、というのが正確な答えかもしれない。

 故郷に用事があり、飛行機に乗った。機内誌を読みながら、久しぶりに「ウン」とうなずく言葉を見つけた。
「好事家」――。
 私の憧れの職業名かもしれない。会社勤めから離れて独立した時から、日本の中で公に使わなければならない職業区分は、「自営業」という、なんとも曖昧な、なんとも味気のない感じがするもので、なにかにつけて記入する時には、いつも抵抗感がある。

「好事家」は、 以前はよく見た言葉だが、職業名としてプロフィールに載ったり、こう紹介される人は、今では少ない。というか、ほとんど見ないところをみると、この手の人が少なくなったのかもしれない。

 人生の中で、仕事の世界に身を置くことから、そろそろ仕事をしたくても、いろいろの事情で離れなければならない、残りの時間を気にして生きる歳廻りになった。過去を振り返ることが多くなった。
 人に話す時も、「以前は、……」とか、「あの時は、……」という話がほとんどになった。
 振り返ると、後悔とか失敗とか、そういうことはたくさんあるが、考えても時間は戻るわけでもなく、かといって、これからやり直す時間はないに等しい。
 ふつうの人でもそうだと思うが、イヤなことの方が、楽しいことよりも思い出されるし、多かったと思う。だから、よかったこと、楽しかったことしか話をしようとしないことの方が多い。

 その中で、今までも、そしてこれからも、生きていく楽しみとして持てるのは、「好奇心」だと思う。振り返ってみて、この「好奇心」が、たぶん人よりもある程度広く、多く持てたことが、今を支えてくれているような気もする。
 そして、その中の一つが「中国茶」であった。

 思えば、いろいろのことに興味を持った。そして、興味を持つと、すぐに探求したくなる。ほとんどの場合は、数年で「わかった」と思ったり、「飽きて」しまったりしたが、その中のいくつかは継続中である。
 その継続中のものの一つが、「中国茶」でもある。

 そんな「好奇心」の中で、ある時は情報源であったり、ある時は教えの源であったり、ある時は情熱の対象であったり、ある時は理解者であったり、ある時は価値の共有者であったりした、そしてこれからもその「好奇心」を支えてくれるであろうと思われるのは、つまるところ「人」であったし、これからも「人」であろう。
自分の努力よりも、私の場合は、偶然によい人、すばらしい人、素敵な人に、タイミングよく出会い、恵まれたことが、今の私を支えている

「中国茶」についても、お茶そのものとの出会いもそうだが、それに関わる「いい人」、「魅力ある人」に出会えたことで、今も「中国茶」を続けているのだと思う。
 私が、自分のサロンにまだ通い続けるのも、中国茶そのものの魅力に勝って、魅力ある人に出会うことがあるからかもしれない。

「好事家」。
 それこそが、私が中国茶を今生業としているのに、ぴったりの言い方だと思う所以である。

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