本文へスキップ

コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2014年8月15日

「あら川の桃」で、私の夏は終わった

――あら川の桃」で、私の夏は終わった

サロン風景の写真 今年の夏はまだ盛りだが、私の気分としては、もう終わったような気がする。
 なぜかといえば、「桃」のせいである。
「あら川の桃」のせいだ。

 三年ほど前になるだろうか。大阪の割烹のご主人が、桃を送ってくれた。みずみずしい感覚とともに、ほどよい甘さがあり、久しぶり、というよりも、桃を食べ始めてから「一番おいしい桃」と感じた。
 箱には「あら川の桃」とあった。和歌山の桃である。

 桃は、大好物とまではいかないが、好きな果物である。今年、大好物になったかもしれない。
 いつの日からか、自分で積極的に買って食べる、ということをしなくなった。
 確かに、「岡山」からいただく桃は、おいしい。でも、この値段で何をおいても「買って食べるか」と考えると、そこまでのテンションが起きなかった。

 この夏は、7月初めの「桃」に始まり、今、「桃」が終わった。和歌山「あら川の桃」である。
 大阪の果物屋さん、そして大阪の教室にいらっしゃっている方々から、「山梨の桃の方が甘いよ」と言われた。ちょうど、いただき物のお墨付きの山梨の桃も食べたが、やはり「あら川の桃」がよかった。

 昨年は、和歌山がご実家の大阪の方が、私があまりにもしつこく「あら川の桃」のことを聞くので、送ってくださった。おいしかった。
 9月の大阪のクラスの時に、果物屋さんに寄った。もう店頭に姿はなかった。シーズンは終っていた。期待していて、なかった時の飢餓感は、一年間「後悔」の念を残していた。
 今年こそ、過ちはせず、食べられるだけ食べようと決めた。

 7月一週目、満を持して、大阪の教室に向かう前、普段よりも1時間早く起きて、新幹線に乗った。クラスが始まる前に、桃をチェックするためである。

 昨年来、勧められた果物屋さんの店頭には、「あら川の桃」が並んでいた。
 店頭に並んでいるのは、「日川白鳳」という種類。最初に出荷される「桃山白鳳」はすでに終わっていた。

「あら川の桃」は、和歌山県紀の川市桃山町で生産される。「桃山町」が以前、「あら川」であったことから、このブランド名になった。
 桃山町で「振興協議会」が作られ、「あら川の桃」「あらかわの桃」が商標登録として登録されている。協議会に加盟している農家やグループなどに、商標の使用許可が与えられ、質の管理・維持と、産地偽装を避けることをしている。ヨーロッパにおける、ワインやチーズの「産地呼称」と同じような仕組みをとっている。

 桃は、新種に共通して、収穫時期が限られている。一つの品種で、10日~2週間くらい。「あら川の桃」でいえば、6月下旬の「桃山白鳳」に始まり、「日川白鳳」、「八幡白鳳」、「白鳳」、「清水白桃」と続き、「川中島白桃」が今年でいえば、8月上旬に登場して、終わりを告げる。
 大阪の果物屋さんの店頭では、「あら川の桃」といっても、ほぼ週代わりで、違う種類、違う風味の桃が並ぶ。

 最初の種類は逃したが、「日川白鳳」、「白鳳」、「清水白桃」「川中島白桃」と今年は食べることができた。それぞれが、違う味であり、外見も違っているのは、比べてみて初めてわかることであった。  共通しての「おいしさ」のもとは、「ほどよい上品な甘さ」と水分を感じる「ジューシーさ」との「バランスの良さ」であった。
 確かに「甘さの濃い」おいしい桃は、他にはあるが、バランスよく食べて満足させてくれる桃は、「あら川の桃」にはかなわないかもしれない。
 あるいは、広い日本、多くの作り手がいるので、もっとおいしいものもあるのかもしれないが、私が入手でき、味わい、楽しむことができるのは、今「あら川の桃」が一番である。
 もちろん、果物屋さんに言わせても、今年の出来がものすごくよく、5年に一度くらいは、悪い出来の時がある、という。でも、私にとっての「一番」である。

 完熟で収穫した桃は、7月、8月の時期は、常温では2~3日ほどしかもたないものも多い。だから東京の店頭には並ぶことは少ないし、並んだとしても高価で、買うにはためらう値段になる。
 産地に近い、大阪などで買うことが条件になる。東京では知っている人が少ない理由も、そこにある。

 私の夏の終わりを告げる、と感じさせる「あら川の桃」の終わり。
 20年近い前に、「鳳凰単そう(木へんに叢)」が、すごいお茶だと、私をとりこにしたことを思い出した。「中国国際茶文化研究会」の偉い方からいただいたお茶であった。四角い、今はあまり見ない形状の缶には、「蜜桃香」の文字があった。
「鳳凰単そう」の香りの表現で、「蜜桃香」の表現をするものを、それ以降、数回しか見たことはない。

 その時のお茶は、文字通り、「水蜜桃」の味、香りであった。お茶が、着香することなく、こんな香りを感じさせるものなのか、と興奮させた。
 今でも、その上品な甘さとフルーティなバランスの良さがよみがえるほどである。
 なかなかそれ以降、「鳳凰単そう」は、感動を与えてくれるお茶が少なくなった。

「あら川の桃」に、「鳳凰単そう」の昔を感じた。それは過去の残像、残肴、余韻を蘇らせ、そして私の夏は終わった。来年もまた「あら川の桃」に会えるだろうか……。

続・鳴小小一碗茶 目次一覧へ