2014年10月1日
蓋碗の形、材質、作り手など、あるいは茶壷の形や材質などの違いで、お茶が「おいしくはいる」器があることは、過去に何度も書いてきたし、それを体験して、自分のお茶をいれる技術の一角にいれてもらうように、教育もしてきた。
ところが、「茶杯」については、その形状や材質で、多くは「香り」の違いは感じられても、あるいは、お湯が杯の縁を通り、口中に流れ込む感触の違いによって、お茶の「丸さ」などが変化することを体験できる、あるいは、杯の縁の形状によって、当たった唇との一体感だったり、心地よさなどが違うことを感じることはあっても、「お茶の味」そのものを変化させる器があることまでは、体験したことがなかった。
材質によって、お茶がまずくなる体験はすることはあっても、味が「良い」方向に変化して、満足感を与えてくれることを明確に感じることはなかった。
7月に、急な用ができ、唐津の陶芸家・中里太亀先生を訪ねた。
先生とその器の話は、このコラムにも、何度か登場している。
先生が「茶碗蒸しにでも使ってもらえるかな」と思って作った、蓋つきの小さな黒い碗は、お茶がおいしくはいることで、私にとっては困った時の「蓋碗」に今でもなっている。
中の様子も、黒色のため、変化する色が見えない。そのため、器にまかせて、なんとなくいれるしか方策はない。でもおいしくはいる。
ご本人は、私からそう言われて、お茶をいれてみるのだが、「おいしくははいらない」と、今でも言っている。
唐津焼はあまり好みではない私が、先生の作られた日常使う皿や鉢などの器だけは好きで、ことあるたびに購入をし、親交を深めさせていただいてきた。そんな中で、あの黒い蓋碗にも巡り合った。ご本人は、お茶をいれる道具のつもりで作ったものではない。
急に訪ねて、奥様も含め、先生との用事が済んだところで、先生から「急須の出来をちょっと見てもらえませんか」、と話があった。
ろくろのある工房に入ると、すでに形になった急須(茶壷)がいくつか並んでいた。「大きさは、このくらいでどうか」、「茶の出る口は、蓋のある口と同じ高さに」と以前先生に言っていたが、「これでよいですか」、などなど、いくつかの質問があった。
私は、茶壷の専門家でもないし、陶磁器の作り手でもない。だから、自信があり、断言できるわけでもないが、経験してきた使いやすい茶壷の要点をもとに、気づくところをなんとなく伝え、あとは先生の閃き、力に任せた。
9月に入り、ほかの連絡があったので、電話をした。その時に「先日の急須を明日、明後日くらいに窯にいれます。できたら送るので、使ってみて、感想を聞かせてほしい」と言われた。
そして、届いた。
形と大きさが少しずつ違う3つの急須が入っていた。
あわせて、小さな茶杯が入っていた。工房で、「小さな茶杯も作ってほしい」と頼んであったものだ。だいたいの大きさの指定をして、様子は先生に任せた。「色は、黒ではなく、水色が見える白っぽい色の方がよいですね」と、先生もだいぶ中国茶を楽しむことに詳しくなってきた。
使ってみて、また「驚いた」。
「また」というのは、先生の器は、予想を超えることが、必ずといっていいほど起こる。
今回、急須(茶壷)は、予想通り、そして、予想を超えて、よい出来である。
「おいしくお茶がはいる」はもちろん、姿、色などの外観もおおいに気に入った。見た人たちの評判もよい。写真では、姿しかわからないが、すぐれものである。
その出来のよさを上回り、「驚いた」のは、「茶杯」である。
先生の奥様が、メモで「かわいい」とそえられていたが、そのとおりである。
姿、表情も予想以上のよさである。先生らしいセンスや優しさが感じられる。いつまでも、掌の中にいて、器の温かさを楽しみたい杯である。
「驚いた」のは、「お茶の味を数段アップさせる」ことだ。
ここまでお茶の味を茶杯が変える体験は、冒頭に書いたように、今まではなかったことだ。
どんな変化か。一言でいえば、「やさしい味」に変化する。
器を含め、情緒的なことを言うのはあまり好みではないが、作者の人柄がそのまま出ているような気がしてならない。
先生の作品は、今までもどこかそんなところがある。最近では、その訴える力が、さりげなく発揮されて、人を魅了するようになってきた。
いれ手の作為がなければないほど、不思議においしくはいる先生の「茶壷」や「蓋碗」。それに加え、何もなさずに、そのお茶をまた数段アップさせる「茶杯」。
いれ手は、「おまかせ」と心でつぶやいて、太亀先生の「心地よさ」に従うことで、「飲み手」ともども「至福」を味わうことができる。
確信はないが、これらの器は、「いれ手」の「人」を見て、反応しているようにも思える。
これらの器の前では、「いい人」でいるようにしよう。その方が、いっそうおいしくはいりそうだ。