2014年11月1日
毎年、10月初めには、翌年のサロンの企画を最終決定する。
以前は、「続けること」をあたり前のこととして、「来年の年間企画は、何にするか」あるいは「来年のクラスの編成をどうするか」などを、考えて、決めてきた。
ここ2〜3年は、8月の終わりあたりから、具体的な企画などを考える前に、まず思うことがある。
それは、「サロンを続けるかどうか」である。あるは、「続けるとしても、従来と同じ目的、目標でよいか。あるいはスタイルを変えるかどうか」といった、サロンの存続についての私なりの決断をする必要を感じるからだ。
それを考えるようになったのは、5年ほど前に3週間ほどの入院をして以来、「サロンをいつ止めることになってもよいように、やり残したことはしておこう」と思ったことからである。
そして、60歳を超えて、公的な役割で多くの人が絡む仕事をリタイアし、後の人に託した。
私の今は、定年がない仕事の環境だが、どんな組織でも次の世代がその組織を運営していくことが、その事業を発展させるのには必要である、と自営業になるずっと前から考えてきたからである。
それに加え、最近数年では、私のサロンが今まで持ってきた、あるいは果たしてきた役割は、もう終わった方がよい時期に来たのではないか、と思うようになってきた。
この領域も、次の世代の人たちが牽引して、新しい役割を果たし、次の時代を作っていくべきではないかと思っている。
「サロン」と呼ぶ今のスタイルのものは、1995年にスタートした。
オムロンの人文科学系の研究所が、21世紀のあるべき生活文化の研究の一つとして、「お茶」を取り上げることになった。お茶、あるいは茶文化のルーツとしての中国茶を研究したり、その実際の生活での役割を研究・模索する一つとして、中国茶の研究と実践を「サロン」という形で始めた。
そこで行なった、当時で言えば、中国茶を「知る」「体験する」「実践する」などということが、プログラムにまとめられた。
それが、今の「中国茶」をいろいろな形で、教えたり、体験したりするクラスやサロンなどのスタートとなった。茶藝を教えることは、その少し前に、台湾からスタートしていたが、このような形のものは、中国を含め、初めてであった。
それが、少しずつ内容や形を変え、今も私のサロンで続いているし、それを土台にして、日本だけではなく、中国で、台湾などアジアで行われている。
始まってから20年の時間が流れた。
20年間、私にはお茶の知識や生産の技術を教えてくれる人々はいても、「楽しむ」「伝える」「学」ためのプログラムづくりや、そこでの教え方などを指導してくれる師もいなければ、教育法のサンプルもなかった。お茶の「いれ方」などの教育プログラムは、もちろん何もなかった。
かといって、今、私がサロンで行っているスタイル、プログラムが最上のものに仕上がっているかどうかは、疑問であるし、あまり意味を持たないかもしれない、と思っている。
時代は変化し、人の中国茶へのアプローチの目的も、大きく変化している。これからも変化し続けるであろう。
だから、常にプログラムは変化していくことでかまわないし、むしろ変化すべきであろう。教える側、伝える側の個性や考え方にそって、どんどん変わるべきある。
しかし、その中で、普遍的なプログラムを組むことができる、あるいは組まなければいけないものがある。それは、お茶を「いれる」ことを教えるプログラムである。
これには、ぶれがあってはいけない。
最終的には、「おいしいお茶がいれられる」「この人のお茶が飲みたい」といわれる人を育てることが、お茶をいれるクラスの目的であるとすれば、目指すすべての人を導くことは不可能でも、多くの人を指導できる手法は、なければならない。
しかし、私もその最終段階を教えることができなかった。どう教えてよいのかが、見つからなかった。
が、やっとその最終段階が確立された。
今年に入ってからのことである。教え始めてから、20年たっていた。
期待していただきたい。あとしばらくしたら、「この人のお茶が飲みたい」といわれるような、魅力的な「お茶いれ達人」が、誕生することになるはずだ。
そのための「お茶をいれる」コースとしては、最終段階の「ファイナル・ステージ」のコースを来年1月から設けた。
そして、お茶を「飲む」「楽しむ」コースでは、来年の年間企画として、私のお茶の「集大成」をテーマにした。
30年を超える中国茶とのつきあい。その中で、身につけた、開発した、考えた、気づいた、いれる技術、楽しむ手法、驚きの発見など、それらを集大成して、毎月一つのお茶を取り上げ、実践・提示をする。
たとえば、「高山烏龍茶を飲み、楽しみ尽くす」といったように、その月は、高山烏龍茶のおいしさから、楽しみから、新しい味、香りの発見まで、私の感性、技術、考え方を駆使して、皆さんに提示する。
おこがましいが、後人に対する遺言にも似たつもりで、一年を臨むつもりである。すべてを出し切る。
まだ新年まで、2か月ある。でも、このプログラム、企画の決定をしたことで、私の中ではすでに新年はスタートしている。