2014年11月15日
なんといわれようが、「栗むし羊羹」が好きである。
羊羹は、「しっかり」「がっしり」が好きで、もちっとした、あるいは薄い感じの羊羹は好まない。だから、「栗むし」は、どちらかというと、もちっとした感じ、薄い感じのものが多いので、あまり好まないと思えるのだが、なぜか、大好きである。
でも、おいしいと評判の栗むしのなかでも、「ういろう」に近いような、かなりもちもちのものはあまり好まない。
もちろん、「栗羊羹」は好みであるが、これも濃い目の、がっしりしたものが好みである。
栗むし大好きのきっかけを作ったのが、新スタイルの栗むしである。
出会い以来十五年を超え、毎年、通いつめて、一年も欠かすことなく、食べ続けている。
写真にある、栗むしだ。京都・木屋町三条上ル「月餅家」の栗むしである。
二層になっている。
上が蒸しパン状、下が栗むしだ。製法については、詳しく聞いたこともないが、月餅家で息子さんの発案で作ったと、昔聞いたような気がする。
作られるのは、10月下旬から11月いっぱい。年によっては、11月一か月だけのこともある。
ありがたいのは、毎年、同じ味を変えずにいてくれることである。作られる一か月間は、京都に行くという人があれば、迷惑もかえりみず、「ちょっとお願いできないですか」と買ってきてもらう。上の蒸しパンが移動する間に変形するので、送ってもらうことはできない。
好きなものは、何をおいても、食べたいのが人情である。
私の場合は、人情どころではなく、「強欲」といえるほど、人一倍強い欲望である。
11月の大阪でのクラスは、ふつうより2時間くらい早起きして、京都で途中下車して、予約してある栗むしをピックアップして、大阪に向かう。睡眠不足などよりも、「栗むし」優先である。
栗むしは、栗が入るのが当然であるが、その時の栗は、味を味わっている。香りを感じて感動はしていない。
なぜこんな話を持ち出したかというと、15年ほど前に、銘茶の図鑑ともいうべき『中国茶図鑑』(文春新書)を書いている時、中国で書かれた銘茶の資料を読んでいると、かなりの頻度で「栗の香りがする」と書かれるお茶が存在した。
そう表現されるお茶は、スモーキーな緑茶か黄茶に多かった記憶がある。が、そのお茶を飲んでみても、私には「栗の香り」と感じることはないので、私の本の説明には「栗の香りがする(と例えられる)」とは書くことはほぼなく、「霍山黄芽」(安徽省の黄茶)などほんの少しのものにそのような表現をした記憶がある。
同じようなことは、チーズの味、香りの説明の中でも、「栗の味、香り」といった表現を聞くことがあるが、私はほとんど感じることはない。むしろその表現が出てくるときは、「ナッツの香り、味」と彼らは言いたいのだな、と置き換えることにしている。彼らが、「栗」が比喩として表現しやすいのだろうと思うようになった。
味、香りの形容のしかたはむずかしい。日本国内なら、なんとか共通認識を持つことができるのだが、国を超えてのことになると、こちらの経験からくる形容と、彼らの経験からくる形容が、同じものを指していても、必ずしも一致することはない。
たとえば、お茶の中国茶の世界でいえば、「蘭の香り」がする、とよく中国では言うし、お茶の説明などにもよく登場する。
どうも彼らにとっての「蘭」は、わりにポピュラーで、形容した場合にも、彼らどうしでは通じる感性を持ちやすいものらしい。だから形容する時に、よく使うのだろう。
日本人にとってみると、今でこそ「蘭」は花屋さんの店頭に、たくさんの種類が並ぶようになっているが、我々に世代には、お祝い用に送る超豪華「胡蝶蘭」がやっと流通しはじめた時代なので、蘭じたい身近ではなかった。
まして「蘭の香り」といわれても、「どんな香りだったか」あまり嗅ぐ機会もない記憶の中から、引きだすことがむずかしいのが本音である。だから、お茶の香りを形容する時にも、ほとんど使わなかった。
そんな味、香りの形容の中で、ひときわ際立つのが、ワインの世界である。世界的に、そういう気配である。
ソムリエに至っては、勉強する中で体験するため、その形容のサンプルになる香りキットさえ売られている。
それを使った表現力、ストーリーづくりも、彼らの技の一つになっている。
最近では、身近になったスペインの「イベリコ豚」の表現もそうである。「最上のものは、どんぐりしか食べていないので、どんぐりの香りがする」などと説明される。その説明を聞いて、食べて、「本当にどんぐりの香りがする」と言っている人を見ることも多くなった。
私自身がにぶいのかもしれないが、現地で、イベリコ豚の生ハムを何種類食べても、肉の焼いたものを食べても、独特の風味は感じて、それが心地よい、おいしい、と思っても、それが「どんぐりの香りだ」と感じたことはない。
でも、感じる人には感じるのだろう。
形容することは、共通認識をもつ近道である。それが相手の経験のないものであったら、共通認識どころかかえって相手を混乱させてしまう。
ともかく、味、香りの形容はむずかしい。ふだん、お茶をいれて、飲んでもらっていて、いつも感じることである。