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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年1月1日

一年契約更新のお約束のスタート

――「見える」「読める」ことが出来て、終わりを知る

十二支と茶葉の写真 また新年を迎えられた。
「まだそんな歳でもないのに」、と人には言われるが、暮れの忘年会の話題は、鬼籍に入った人のことが頻繁に登場するようになった。5年前では考えられなかったことだ。
 ちょっと前までは、「人間ドック」「健康診断」の結果に、一喜一憂している話題に、「歳」を感じていたのに加えてである。

 お茶をいれることに、変化を感じ、「歳」を感じるようになったのも、ここ数年である。
 自分のいれるお茶で感じるよりも、いれている人の動作、振る舞いを見て、いろいろのことが「見える」「読める」ようになって、「これが歳」あるいは「歳月を経た」ことだな、と感じるようになった。

 どういうことかといえば、人がいれている所作、流れ、お湯の勢い、お湯の流れなどを見ることで、その人がいれたお茶が、どういう味になり、どういう雰囲気のお茶になるかが、読み取れるようになってきた。
 だから、極端に言うと、飲む前に、いれられたお茶の味や感じがわかってしまう。

 このことは、「お茶を楽しむ」ことにおいては、ちょっと興ざめなことになる。
 飲む前に、お茶の味などがわかってしまっては、飲んだ瞬間の、「驚き」や「感動」がなくなってしまう。
 読めない時は、より「驚き」や「感動」が大きかった。それゆえ、「楽しめた」。
 よほどの水準ではいったお茶でないと、「驚き」や「感動」が少ない代わり、とてつもない水準ではいったお茶には、今まで以上の「驚き」や「感動」、そして「尊敬」を感じる。

「見える」「読める」ようになってからは、お茶のいれ方を教える時には、そのことが役にたっている。的確に、その人のいれ方の改善すべき点を、見極めることができるようになったからだ。
 すべての人を修正できるわけではないが、90〜95%くらいの人のいれ方を、改善できるのではないかと思う。

  そんなことを、昨年暮れのサロンの忘年会で、また学んだ。
 今年の忘年会は、東京を離れ、大阪の中華の名店「空心」で、行なった。
 クリスマス前、土曜日の夕方、暮れも近い、しかも日帰りは可能だが、ゆっくりするには泊まりも必要となる。それでも、たくさんの人が集まってくださった。

「空心」のシェフ、大澤さんは、今でも若手だが、もっと若い時から評価が定まっていた。人々の評価の高さでは大阪一かもしれない。
 中華の世界、中国でも日本でも、名手は頭角を現すのは、たいてい30歳前である。評価はその時に決まることがほとんどだ。
 私は、日本で中華を食べるなら、いろいろの要素を含めて、ここ数年は「空心」で、とまず思う。だから大阪で、中華を食べることが多くなった。

 いつもは、数人と一緒。人数が多いこともあって、テーブル席に座ることがほとんどだった。今回は、あこがれのカウンターの端の椅子を確保し、そこから、作るところも見える場所に座った。
 大澤さんの姿、動きを見て、今の大澤さんの様子を楽しみたかったからである

 大澤さんは、私の視線を感じて、少し嫌だったみたいである。チェックされているようで、嫌だったのかもしれないが、こちらは見ていて楽しかった。チェックなど、おこがましいこと、出来るはずがない。

 大澤さんの鍋を振る姿が、絵になった、と思った。
 今まで、ゆっくりと見たことがなかったが、数年前までは、力で鍋を振り、それが力強い料理、おいしさを表現する料理として登場していた。
 そして、今回。なめらかな手首の返し方、これが見ていても心地よく、スムースで、こちらも肩の力が抜けて、いい世界に入っているような気がした。

「絵になる」とは、その動きが自然であり、気負いもなく、気持ちのよい柔らかな世界がそこにあった。鍋に当たる強い炎を、あるときは味方につけ、あるときは敵対し、一体になってシーンを作っていた。
 職人の仕事をする美しさが、そこにあった。
 そして、大柄な大澤さんが、優しく大きな宇宙をそこに作っている感じがした。

 力、技術で押しながら、作る料理から脱皮し、それを土台にしながら、より大きな、安定した、自分の世界を感じさせる空間で、料理する時代に入ったのだな、と感じた。

 出てきた料理も、以前よりは一皮むけた、安定したおいしさが感じられ、思わず「うーん、おいしい」とささやく料理になっていた。
 身体に自然に溶け込む味でありながら、きっちり大澤さんでないと出来ないと思わせる、ほどよい個性がしっかりあった。
 いよいよ名手から名人の域である。

 私のお茶のいれ方は、どう人に映っているだろう。
 いわゆる「茶藝」として、美しさでお茶をいれたことは一度もなかった。やろうともしなかった。
 いつから肩の力が入らないで、常にお茶をいれることができるようになっただろう。それも、わからない。
 いろいろのことが、わかるようになった時、見えるようになった時、それはもう「終わる」時を意識するようになった時である。
 残る時間で、わかったこと、見えることを、人に教えること、伝えることが、使命のようにも思える。

 暮れは、プロ野球も、契約更新の時期であった。
 私のこれからの活動も、皆さんとの「一年契約」で更新していくことになる。それが、皆さんに確実に実行できる意思を、お約束できることのように思える。複数年契約は、カラ約束になる可能性がある。

 中華の達人を見て、無為自然にお茶をいれられること、それが私のお茶をいれるゴールであることを再認識した。
 そろそろ、句読点を打たなければならない時も感じる。

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