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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年2月1日

陸羽は、名編集者、名評論家では……

――『茶経』をどう評価するかで、感じること

サロン風景の写真 早くも、今年も1カ月が過ぎた。
 昔、「歳をとると、時間が過ぎるのが早い」と年寄りが言っていた。
 そんなはずはない。何で月日が過ぎるのが遅いことか、早く大人になりたい、と思っていた十代。仕事をやり始めた二十代。会社を代り、新しい仕事で周囲の足をひっぱっていた三十代。何かおもしろいことはないか、と模索していた四十代。再び会社を代り、いくつもの会社・組織を行ったり来たりし、そして独立した五十代。
 中味は今よりもずっと濃かったはずなのに、時間はなかなか過ぎていかなかった。

 私は、記憶力が極度に弱い。ない、といったほうがよい。だから、忘れる。
 今では、人には、「歳をとって、モノ忘れが……」といって、お許しを賜ることが可能になって、よかったと思う。が、もともと覚える力がないのである。
 だから、原稿の締切りなどは、よく忘れる。だから、忘れてはいけないことは、「締切りの三日前に、必ずメールをください」と言って頼んでおく。それが、私の締切りを守る秘訣である。

 知識・情報についても同じである。
 これは、編集者時代に身についたことだが、本とか自分の記憶力を頼みにするよりも、ずっと最新のよい情報・知識を得られることがある。しかも、コメントや解釈つきである。
 それは、「誰に聞いたらよいか」という人を覚えておくことだ。あるいは、ネットワークを作っておくことだ。それも、なるべく少人数でよい。
 何か、知りたいことが出てきたら、知っていそうな人に聞けばよい。その人が知らなければ、その人に、「誰に聞いたらわかるか」と聞いて、「xxさんの紹介で、xxについて知りたいのですが、教えていただけませんか?」とか、「何を見たらわかるのでしょうか」と連絡をとればよい。

 その人が一生をかけて勉強し、研究し、得た知識を、限られた時間の中で、よいところ、おもしろいところなど教えてくれる。
 それは、編集者や記者などの業界でいえば、取材力がある、という評価になる。

 なんで、こんな話をしたかといえば、先日「陸羽をどう評価するか」といったことが話題になった。

 以前から思っていたことだが、お茶の世界では、とくに現代中国茶の世界では、ますます「陸羽」に対する評価が高まっている。
 その評価が高まることに反旗を翻す気は、毛頭ない。
 が、彼が「茶聖」だの、「茶神」だのと言って評価されることを聞くたびに、何か、違和感を覚える。

 確かに、今も生き残る彼の『茶経』は、すぐれた著作であり、それに異論をはさむ余地はない。
 しかし、それを著した陸羽を、偶像的に、あるいは教祖的に、まつりあげ、崇拝するのには、私はどこか違和感がある。

『茶経』を読んでいると、飽きてしまう。飛ばし読みで十分である。
 なぜかといえば、今のお茶とは違うからである。それを読んで、歴史上の知識を得ることはできるが、現代でお茶をいれることに役立つか、といえば、答えはノーである。役には立たない。ヒントすらないかもしれない。
 
 書かれた当時は、すごい本であったに違いない。
 唐時代、今少し広がり、定着しようとしている「お茶」という飲み物は、どこで、どう生まれ、どのように作られ、どのように飲まれているのか。その効能は何か、どういれたらよいのか、などなどを、じつに簡潔、明快に説明している。

 知りたい、と思う人にとって、それまでなかった知識、情報を与えてくれるおもしろさをもった本であったに違いない。
 それを、一冊の本にまとめあげたこと、そしてその時代にそれを世に問うことをしたことに、彼の偉大さがあったと思う。
 今でも、「唐代、あるいはそれ以前に、お茶がどのようなものであったか」を知りたい時に、事典的に検索するには、じつによくできた本である。

 今の時代、テレビという媒体で、似た役割をはたしている人がいる。池上彰さんである。
 疑問を、要領よく理解させてくれる。似ている存在だと思う。

 今に至っても、過去を知る知識は十分にあり、その存在価値を否定するものではないが、私にとっては、唐という時代に、陸羽が、というよりも、その時代が、あるいはそこに至るまでの時代が、お茶をどう捉えていたかを知るために、必要な時見る文献にすぎない。
 まして、彼が「茶聖」とか「茶神」とかと評価されることは……。

 彼は、『茶経』における名編集者であり、お茶評論家であったと思う。
 読者は、ある場合、何を知りたいかすら、わからない。どこから手をつけてよいか、それすら見つからない。
それを気づかせるところまでの配慮すら感じさせる、整理された章立て、簡潔でありながら、十分に伝わるであろう説明。
 なかなかこうはいかないものである。
 書きたいこと、伝えたいことが多ければ多いほど、いろいろ余計なことを書いてしまう。その結果、伝わりにくくなる。

 私が、『茶経』の中で、不満に思うことは、最後の短い章である。これがなければ、この本はもっとすばらしかったのに、と思うし、このことは陸羽が一番知っていたはずではないか。
だから、この章は彼の書いたものではなく、後代の人が書き加えたのではないかとすら思える。
 それは、名編集者、名評論家、著者は、絶対にしないことである。

 作品は、世に出た瞬間に、自分の人格ではなく、他人の人格になる、ということだ。
 評価は、世の人がすることで、自分の思いとはほとんどの場合、違う。あるいは別の評価、価値を持つ。

 陸羽は、巻末十章において、九章まで書かれてきた文章を写し、座右として掛けて眺めることで、『茶経』は会得されるとしている。
 余計はお世話である。
 仏教など、宗教で「経」を唱えることで習得はあるのかもしれないが、そこまでの精神性を彼は、読者に求めたのであろうか。

 とくに、ここ15年、中国での陸羽に対する評価を聞き、話題にのぼり、崇拝の声を聴くたびに、どこか違和感を覚える理由である。

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