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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年2月15日

すごいお茶は、無言のコミュニケーションを可能にするのか

――京都で、稲荷ずしから思うこと

サロン風景の写真 節分に「恵方巻」、という最近、全国区になってしまったイベント。今年も済んだと思ったら、「節分と初午(はつうま)が、例年より近いから……」と、いう話を、聞いた。

 京都で、いつものお寿司屋さんに座っていたら、仕事のカウンターに煮込んだ「稲荷ずし」の皮が、じんじょうではない数、容器に入れられて、積まれていた。
「恵方巻」が済んだので、仕事は一段落かと思っていたら、そうではないのだそうだ。

 京都のお寿司に、「稲荷ずし」は、定番の一角をしめる。
 その「稲荷ずし」を、京都では初午に食べる習慣があるという。
 初午の日に、食べたり、お供えしたりするものは、地方によって、さまざまのありようだと聞く。関西では、「稲荷神社」に「稲荷ずし」や「油揚げ」を供えたり、「稲荷ずし」を食べたりするところが、多いと言っていた。

 だから、京都のお寿司屋さんでは、「稲荷ずし」を初午めざして、たくさん作るのか、と納得していたら、この半端でない数は、毎年の2倍か3倍の量だという。

 発注元は、町内の世話役の人たち。ふつうの年でも、初午には、町内で世話役が、「稲荷ずし」を配る習慣があるという。そういう習慣が残っていることに、「さすが京都」と、勝手に合点した。

 なぜ毎年の量を上回るかというと、「節分」と「初午」の日にちの間隔が短い年は、火事が多いという言い伝えがあり、火の元の注意喚起のため、あるいは火の元注意で無事であった御礼に、「稲荷ずし」を配るという。今年は節分と初午が近いので、ふつうの年よりも多い数が配られるのだ。

 なんとなく、温かな話題で、まだ残っていた習慣に、京都という古都のイメージが重なる。
 別の見方をすると、京都人独特の間接話法、間接的表現手法があるともとれる。ものを配ることで、火事になっては周りに迷惑だから、注意喚起を間接的に行っている、ともとれる。
 リスク回避のための、古いコミュニティでの知恵だともいえるし、京都人の他人との間の置き方、距離を保ちながらのコミュニケーションの上手さが伝統だともいえる。

 もともと、私は、人付き合いがよい方ではない。人とのコミュニケーションも苦手である。できれば、一人でいた方がよいのだが、仕事をするようになって以来、そういうわけにもいかなくて、ずいぶん無理をして、人と接してきた。

 30歳を超えて、仕事が「編集者」になった時は、まったく人格を変えなくてはいけない思いであった。人と会い、人と話し、人からヒントをもらったり、人から聞いた話しを他の人に伝えることなどが仕事になった。
 ともかく、「人に会え」。それが編集長からも、周りの先輩たちからも、言われたことだし、アドバイスでもあった。
 もらった名刺の数で、編集者としての質が問われるくらいの雰囲気があった。

 そんな苦手なことをどうやって凌いだか、といえば、今流の「聞く力」であった。こちらから、話しをする内容や話題もない。かといって、黙っていては仕事にもならない。ともかく、目指したのは、「良い聞き手」、「上手な聞き手」になることであった。
 質問をし、話してもらっている間は、こちらは話す必要はない。すぐれた世界的権威の人などは、今でも「ありがたい」記憶がたくさん残っている。
 私のわけもわからない質問に、子供にもわかるように、難しい内容を理解しやすく説明してくれた。本当にわかっている人は、どんな人にも理解できるように話せるのだ、と知った。

 編集者は、伝える仲介者でもある。
 読者に伝える時、理解しやすい仲介者でなければならない、と思った。

 時代は飛んで、中国茶と付き合うようになって、驚いたことがあった。
 すばらしいお茶の中でも、ごくごく稀に、「無言のコミュニケーション」とでも言う環境を可能にするお茶があることがわかった。

 どういうことかというと、このタイプのお茶を飲んでいると、それまで話しをしていた人が、「黙ってしまう」。
 普通のお茶なら、「黙ってしまう」ことによって、一人一人は感動しながら、自分の世界に入っていくのだが、本当にすごいお茶は、沈黙の世界でありながら、言葉なく、その場にいる人々はコミュニケーションというか、通じ合っている。心で会話をしている感じで、一体感すら感じている。

 同じ感動を共有しているだけでは説明がつかないなにか。
 この場に参加できたこと、いたことの幸せを感じている。

 そんな体験をして、すごいお茶があるのだと、いれ手の私が驚いた。
 私がいれたお茶は、私の手を離れ、各人の世界に入り込みながら、各人を一つの空間、宇宙の中に、各人のあるべき場所にやさしく安住している。

 無言のコミュニケーションである。
 時間、空間を超え、静かで清らかな感動という宇宙で、幸せを分かち合いながら、心を通じさせている。
 見方によっては、ちょっと「あやしい」世界でもある。

 京都で、「稲荷ずし」のたくさんの皮を見て、京都人の独特の間接話法を感じ、そこから、こんなお茶の世界があったことを思い出した。
「思い出した」と書いたとおり、こんな「あやしげ」でありながら、時空を超えたコミュニケーションができる、すごいお茶に、しばらく出会っていない。   
 いつまた出会えるかわからない。少し寂しい気がした。

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