2015年3月15日
またも、昔話しである。
今回は、ピューターのポットの「使い始め」とそれにまつわる話しである。
ピューターのポットを使ってお茶をいれることで、今まで話していなかったことも、明かしたい。
現在では、日本の中国茶の世界では、わりに当たり前のことのように、ピューターのポットを使って、中国茶をいれることをしている。鳳凰単そうなど、ピューターのポットを使うのに向いているお茶の場合、おいしくはいる器として、定着をした。
といっても、世の常識、というほどではなく、知っている人は知っているだけの話しだが。
今年の私のサロンでの年間企画は、前にも説明したが、私の中国茶との関わりを一度総決算してみたい、というものだ。
中国茶をいれ、飲んでいただく、ということを、いれる技術を中心に、経験から学んだこと、開拓したこと、身につけたことなどを、皆さんに整理して開示したい、という企画である。
毎月、日本人にはポピュラーな中国茶を一つ選び、私なりのいれる技術や考え方を開示する。今まで、説明してこなかったことも説明する。あるいは飲んで、体験していただく。
2月のテーマのお茶は、「鳳凰単そう」。
このお茶に出会ったのは、30年以上前。香港であった。たちまちとりこになった。
中国茶が、仕事の一部になった20年ほど前には、このお茶の難しさを知ったお茶でもある。
その20年ほど前、ある雑誌の企画で、「フレンチと中国茶のマリアージュ」をやることになった。知り合いのレストランということもあり、相談しながら、ジビエをメインにしたコースを考え、アペリティフから中国茶であわせ、そのあともコースにあわせて、いくつかの中国茶を考えた。
その中で、同じいれるなら、今まで人が使ったことのない器でいれてみようと、「鳳凰単そう」は一人用のピューターのポットを使うことにした。
評判は、よかった。
ピューターのポットは、ヨーロッパ紅茶の世界では使われてはいたが、銀器へシフトが進み、当時では、もうほとんど使われてはいなくなっていた。もちろん、中国では、ピューターのポットを使って、中国紅茶はもちろん、お茶をいれることに使っているのは見たことがなかったし、今でもほぼないといってよい。
その少し後で、お茶をいれてほしいと、外部から依頼があった。出張のお茶教室である。何とか「鳳凰単そう」のおいしさを知ってもらいたくて、ピューターのポットを持って出かけた。
ここでも評価は、すこぶるよかった。
そんなこともあり、目につくたびに、ピューターのポットを買うようになった。
買うたびに、感じたのは、ポットによって、同じ茶葉をいれても、味、香りが違ってはいることである。
陶磁器の器でも、そんなことはよくあることなので、おおくくりに、「鳳凰単そう」をいれるには、ピューターのポットがよい」ということを申し上げてきた。
最初に手にいれた一人用のピューターのポットは、フランス製で、日本では「メゾン・ド・レタン」のコレクション名で売られていた。
そのシリーズのものを、いくつか手にいれた。
マレーシアには、「ロイヤル・セランゴール」という、世界にマレーシアが誇るピューターのメーカーがある。そこの、カボチャ型のポット(メーカーは、メロン型と言っていたと思う)が欲しくて、マレーシアであった国際会議の時に、クアラルンプールの本社・工場に行って、入手した。
そのあとも、イタリア人デザインの別のポットも買った。
日本にも、ピューターの急須がある。
京都・寺町の精課堂は、錫の工房としては知られた老舗である。よく前を通るたびにのぞいていたが、どういう風に中国茶がはいるか、興味があって、ちょっと高くてずいぶん迷ったが、後ろ手の急須を注文して作ってもらった。
というように、いくつもピューターのポットが手元にはある。そして、同じ茶葉を使っても、どれ一つ同じにははいらない。形状の違いでは、ちょっと説明が不足していて、型でつくっているもの、打ち出しでハンドメイドで作っているものなどの違いによってか、はいり方は違うことになる。
違う理由を、作り方の違いで説明をしてきた。
もう一つの理由を、ピューターの組成がメーカーによって違うことも説明してきた。
ピューターは、ヨーロッパ紅茶の世界では、水を変える、と説明されてきた。だからおいしく入る、と言われてきた。
錫(英語でいえば、Tin)とは言わず、ピューターで呼ぶのは、ピューターは、錫とアンチモンの合金である。
フランスで作られる、「メゾン・ド・レタン」の名で日本で売られるものは、製品の刻印に、マークの下に「錫95%」と刻印されている。5%アンチモンか他の錫を強化するための金属が交ぜられている。
「ロイヤル・セランゴール」は、工場で聞いたところ、やはり錫にアンチモンを混ぜていると言っていたと記憶する。比率は、錫93~97%に対して、アンチモンが3~7%で、その差は、製品によって変えるからだ、という。
京都・精課堂は、これは記憶、しかも、どこで聞いたか忘れたので間違っているかもしれないが、錫に銀を混ぜている、と聞いたような気がする。
このように、一つには合成の違いによってであろう、変わることを、2月の年間企画のクラスでは、5つのポットを使って、違いを比較、体験してもらった。
この違いが、器の厚さや熱の伝わり方を微妙に変え、水の変化も変える要因にはなっていそうな気がする。
そして、2月のサロンでは、今まで説明してこなかったことを、体験してもらった。
同じ茶葉、同じ温度、同じ茶杯など、条件をなるべく同じにして、同じポットでいれても、いれるたびに表情が違ってはいることである。
陶磁器で同じことをやったら、ほぼ同じくいれることはできる。
ピューターのポットの場合、狙っていれても、違ってはいる。午後のクラスでいれて、同じ条件で、同じねらいでいれても、夜のクラスでは違ってはいってしまう。
だから、いれるのを何度も失敗したことがある。思惑、目標どおりにはいってはくれないのである。
言ってみれば、いれ手の思惑や、技術とは関係のないところで、勝手にはいる。
この頃では、ポットの気分しだいに、まかせるようにしている。なまじ、技巧をこらしてやっても、そのとおりにははいらない。
しかし、思惑や狙いどおりにはいらない失敗はあるが、それなりにおいしくはいる。
いれてみて、飲んでみなければわからない。いくつかのお茶を飲む場合など、飲む順番を構成しても、先、後を逆にした方がよかったというように、失敗した経験が多い。
それが、おもしろい、といえばいえるのだが、いれる技術力は関係ない、という事実に、なんとも釈然としない気持ちは、今も継続中である。
しめくくりの言葉は、同じ。
「鳳凰単そう」をおいしくいれるには、ピューターのポットを使うと、おいしくはいるでしょう。
これは、事実である。