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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年4月1日

「捨てる」作業から、とんだ拾いものか(上)

――『養生訓』は、煎茶の普及時期を塗り替えるか

養生訓の写真 暖かくなって、年度末が来たからというわけでもない。
 もうどうにもならなくて、場所を確保するために、まず本の整理を始めた。整理といっても、捨てなくては場所が生まれないのだから、捨てるための作業である。

 いつものことだが、決心をして、捨てるための作業を始めるが、なかなかはかどらない。とくに、本の整理に関しては、雑誌や論文集などの資料の整理もあるので、とくにはかどらない。3〜4時間費やして、「とっておこう」と、結果、一冊も捨てられない時もある。
「読んでなかった」と、斜め読みのつもりで読み始めて、おもしろくなってしまい、あるいは途中では止められる内容ではなくなってしまい、数時間かけて読み、そして「保存」と決断する結果になってしまうことが、よくある。減らないのである。

 本当に捨てるためには、「読まない」決断もしなくては、大量の処分はできない。
 そんな決断の必要性は、もう何十度を通り越して、数えきれないくらい過去に経験して、十分わかっているのだが、結果は思うようにはならない。

 ということで、3月のある日から、空間を復活、確保するために、本ばかりではなく、使わないもの、いらないものを捨てる決断をし、整理を始めた。
 まず、本や資料を、と思い、固い意志のもと始めたつもりだったが、早くも初日で挫折を味わった。

 整理を始めて、間もなく目に入った本がいけなかった。
 松田道雄訳の『養生訓』である。もちろん著者は、貝原益軒。
 この本は、中国茶と深く関わりをもつ前に買った本である。奥付の刊行は1973年だから、40年ほど前に入手したはずだ。
 松田道雄さん(1908〜1998年)は、小児科医でありながら、広く評論、執筆活動もされていて、当時の京都学派の人たちと、いろいろな活動をされていた。
 私がこの本を買ったのは、たぶん松田さんの活動を興味深く感じていた一方で、当時私は雑誌の編集者で、健康分野の担当をしていたからと記憶している。

 目次をサラサラと見て、捨てるかどうかの判断をしなければ、と思っていたところ、「飲茶」の文字が目に入ってきた。そんな項目があったことも覚えていない。入手した当時は、読み下して記憶の外に行ってしまったのだろう。

 捨てる決断をしなければならない中、まずい展開である。
「貝原益軒は、茶をどうとらえていたのだろうか」。興味がわいてきた。

『養生訓』は、1712年の刊行である。この本がすごいと思うのは、彼が83歳で書いた本であるということだ。
 江戸時代においては、とてつもない長生きの老人で、儒学者として黒田藩に70歳まで勤め、職を辞してから、80歳までの間に、20冊も本を書いたという。
 記述の中に、82歳で歯は一本も抜けておらず、細い筆も自在に操れたと書いてある。
 彼そのものが「養生訓」の結果であるのだから、この本は当然説得力を持つ。

 まず興味を持ったのは、彼が取り上げたお茶は、抹茶であったのか、煎茶であったのか、であった。
『養生訓』の中では、抹茶よりも、煎茶を主体にして、お茶の効能や、飲み方などが説明されている。

 われわれの知る日本における飲茶の歴史でいえば、散茶の煎茶が、庶民にまで飲まれるようになる、そのきっかけは、売茶翁高遊外が、僧をやめ、京にのぼり、61歳でお茶売りになる1735年ころと言われている。
 この本は、それよりも前に、書かれている。
 知る歴史認識でいえば、抹茶を主体として、養生訓では取り上げられていなければならない。

 あるいは、高遊外がお茶売りとして黄檗宗の教えをひろげようという、その元になるのは、日本に黄檗宗を伝えた隠元が、中国から煎茶道具一式と、散茶を持ち込んできたからである。宋代の飲茶の主流は、抹茶である。そして、明代に入り、主流は散茶から抽出したお茶を飲むようになっていく。隠元は、明代末期に生まれ、清代初期に来日する。

 1654年、隠元が中国から来日し、1661年に京都に黄檗宗万福寺を開山する。
 この本が書かれたのは、それよりは後である。
 隠元が持ってきたお茶、あるいは散茶から抽出して飲むお茶の習慣は、この本が書かれる時には、それほどの広がりをみせたのであろうか。
 だとすると、従来の煎茶の普及に関する歴史的認識は、修正されなければならない。

『養生訓』の「飲茶」の項で、貝原益軒は、抹茶と煎茶の両方を取り上げ、説明している。
 抹茶は上流階級とはいえ、当時までには、定着して久しい時間がながれている。
 利休の生涯は、1522〜1591年である。
 養生訓の茶の項に、抹茶が取り上げられているのは、納得できる。

 だが、私的な印象だが、貝原益軒は、抹茶よりも煎茶に重点をおくように、しかも煮出す方法などかなり詳しく書いている。しかも、その時代の背景として、松田さんの訳文には「(茶は)人から愛されて日用欠くことができないものとなった」、あるいは、「現在は朝から晩まで日々茶を飲む人が多い」とある。

 これが真実だとするならば、散茶からお茶を抽出して飲むことは、高遊外以前に、すでにかなり広く、庶民まで浸透しているかどうかはわからないが、定着して飲まれていたことになる。

 これが当時の世相や生活文化を反映したものであるとすれば、今まで説明してきた、日本における、散茶からお茶を抽出して飲むことの定着の時期は、もっと早い時期に塗り替える必要があることになる。
 1654年(隠元の来日)よりはあと、1712年(『養生訓』の刊行)より前ということになる。
 高遊外よりは、前の時期ということだ。

 もちろん、この塗り替えを確定させるには、『養生訓』の原著で検証しなくてはならないし、他の物証も探す必要もある。今は、まだ憶測のレベルである。

 こんなことを考えていると、「捨てるための片づけ」どころではなくなる。
 そのうえ、養生訓から、別の疑問も、出てきてしまった。

(次回に続く)

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