2015年4月15日
前回に続き、片づけついでに見た『養生訓』。その中に見えたものを、もう一つ紹介する。
貝原益軒は、『養生訓』の中で、松田道雄さんの訳をそのままに書くと、「茶は、冷」と書いている。
通常、本草学では、身体を温めるもの、冷やすものを、「温寒」で表現し、『茶経』でも「茶は寒」、明代に集大成された『本草綱目』でも、「茶は寒」で説明されている。
『養生訓』の原書を持たないので、貝原益軒が「冷」の表現をしたのか、松田さんが訳すときに、わかりやすいように「冷」と表現されたのかはわからないが、ともかく「茶は寒」で扱われていると推察される。
清代の1760年代になってから、中国では『本草綱目拾遺』がまとめられる。その中では、「茶の性」に関して、明代にまとめられ、今でも中国医学、本草学のバイブルとなっている『本草綱目』から、修正がなされる。
明代から清代にかけて、中国におけるお茶の種類の多様化を受けてのことである。従来の緑茶を中心としたものから、それに加え、烏龍茶などの半発酵のお茶、紅茶などのお茶の誕生、あるいは乾燥段階で、焙煎を加えるお茶を生産する地区が登場するなど、種類、製造面でも多様化が進んでいった結果である。
従来の「茶は寒」から、「温」と「寒」に分け、その種類に分けて分類されている。
前回書いたように、『養生訓』は1712年の刊行である。中国では、『本草綱目拾遺』はすでに誕生していた。中国でのこの新しいお茶の捉え方が、ある程度広まっていたかどうかは、定かではない。広まっていなければ、日本に伝わるはずもないし、益軒も知るよしもない。
『本草綱目拾遺』そのものも、日本に伝わっていなかったのかもしれない。
ともかく、貝原益軒は、茶は種類、加工の違いで、「温」のお茶も存在することを知らなかったといえる。
というのも、益軒は、「茶」の記述の中で、こう書いている。松田さんの訳そのままを引用する。
「煎茶は用いる時に炒って煮るからやわらかである。だからいつもは煎茶を飲むのがよい」。
その前段には、「抹茶は使う時にあたって炒ったり煮たりしないから強い」、とある。
当時の、煎茶は飲む前に、炒り、煮て飲んでいたのであろうか。
こうも続ける。
「茶を煎ずる法。弱い火で炒って、強い火で煎じる」。「強い火で炒ってはいけない」。
より具体的に、こうお茶のいれ方を指南する。
「堅い炭のよく燃えたものをさかんにおこして煎じる」。
「ぬるく、やわらかな火で煎じてはならない」。
高い温度に、ある時間保ち、煮ることの温度設定、煮出し方を指示する。
「たぎりあがる時に冷水をさす。このようにすると茶の味がよい」。
おいしいいれ方への示唆である。
「右はみな中国の本(唐の陸羽の『茶経』)に書いてある」。
こうも書いていることから、益軒は、『茶経』に触れていたこともわかる。
このようないれ方の基礎知識は、益軒は『茶経』から学び、そして本草学の書籍などからその知識を総合させていると考えられる。
しかし、矛盾が見えてくる。
「弱い火で炒って」「強い火で炒ってはいけない」とある。
『茶経』を基礎としていると、この「炒り」は、固形茶を崩しやすくするための手段であったろうと推察できる。
すでに益軒が扱ったお茶は、前回指摘したように、散茶になっていたと推察できる。「抹茶」との対比も出てくるので、それは確実であろう。「炒る」必要があったのだろうか。
日本のお茶のいれ方、飲み方の歴史を研究されている方に聞かなければならないが、もしこのような飲み方が日本でされていたとすれば、いつ頃から、「炒らない」、「煮ない」お茶のいれ方に変わっていくのだろうか。
前回の、日本における「煎茶」の普及の時期とも重なって、疑念が残る。
益軒は、さらに続ける。
「湯わく時、……の生薬を加えて煎じると香がいちばんよい」。
これも、中国・唐代あたりのお茶の飲み方にダブっていく。そして続ける。
「性がよくなる」。
基本に、益軒が書いている「蘇東坡・李時珍(注・『本草綱目』の著者)など茶の性はよくないといった」という考え方があって、「お茶の性」が「よくなる」ことを言いたいのである。
茶の本性である「寒」がいけないのであって、「温」に変えて飲むことによって、身体によくなる、ということだ。
煮る前に「炒る」は、前述したように軽く炒るのであって、「焙じる」ようなことをしてはいけない、としているので、「寒」の状態での判断である。これが「ほうじ茶」まで、強く炒るのであれば、そのお茶はすでに「温」であり、益軒のいう「寒」は、中国の古い時代の文献上だけの知識で、これらの記述を書いていることになる。
またも、矛盾まではいかないが、本当に実体験がともなっているのか、と思えるところもある。
「中国の茶は性が強い。これは製造の時に蒸さないからである」。
これは、本草の考え方から言って正しいと思われる。しかし、疑念を生じさせるのは、「中国のお茶は蒸さない」ということは、「炒る」殺青を彼は知らないまでも、中国ではこの時代、お茶の殺青は、蒸す以外のやり方で行っている、と把握していることである。
しかし、彼が論を展開する、あるいは「茶」に関する考えを、この本の中で示している根拠としているものは、本でいえば唐代の『茶経』であり、あるいはまだお茶が多様化する前の明代にまとめられた、『本草綱目』などの周辺である。
これらの根拠となっている唐から明代初期までのお茶は、益軒が指摘した「蒸さないお茶」ではなく、主流は「蒸したお茶」のはずである。
そうすると、益軒が示したお茶の記述は、その基本において、間違いとは言い切れないが、矛盾が生じてしまう。益軒は、中国において進んでいた茶の製造の変遷を、正確には知らなかったのだろうか。
しかし、このような矛盾を感じさせることなどは、むしろ「重箱の隅」のこととすべきであろう。
益軒が著した『養生訓』で、彼は抹茶以外の「茶」を取りあげ、「酒」と並べてトピックスとしていることに、当時の日本における、一部の層かもしれないが、抹茶以外の「茶」への興味、広がりがあることを意味しているし、それが生活の中での「健康法」の対象としてとらえられたことに、意味があるといえる。興味深い。