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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年5月1日

親不知を抜いて考えたこと

――「おいしい」を感じ続けることができる選択

サロン風景の写真 最後に残っていた「親不知」を抜いた。
 とうの昔に、他の3本は抜いてしまっていた。残った1本は、横にはえているため、抜くについてのいろいろのリスクを考えて、今まで温存してきた。

 私は、極端に歯が動くらしい。しかも、徐々にではなく、短期間で激しく動くようだ。
 何かがあると、歯が動く。以前、3週間ほど入院した時、退院した後の歯列は、入院前とは同じ人の歯列とは思えないほど動いていた。

 今回、親不知を抜くには、理由がある。親不知を抜かずに温存していたリスクを、超えるリスクが生じたからである。
 横にはえていた親不知が前に動き、その前の歯にぶつかり、しかも少し肉をはじいて、上に頭を出すように持ち上がった。
 どういうことが起きるかというと、奥の歯にぶつかり、頭を出したその接点は、歯磨きができにくく、いずれは虫歯になってしまう。
 そうすると、最悪はその奥歯を抜くことになる。もう一つ前の歯は、若い頃抜いてクラウンをかぶせてある歯で、その歯に、将来来るべき多くの入れ歯を支える力はすでにない。
 そのためにどうしても奥の歯を残さなければならない。その奥歯を残さなければ、無理な入れ歯になり、味を十分に楽しんだりする生活が脅かされることになる、というのだ。

 出した結論は、残された生活を、より「味」わいを大切に生きることを選択することとし、親不知を抜くことにした。
 抜歯には、リスクを減らすため、信頼できる口腔外科医を紹介してもらった。

 歳をとると、このような今までには想像もつかなかった、未来への判断を求められる機会が増える。そのつど、選択、対応をするわけだが、あと何年生きるかもわからずに、選択することはなかなかむずかしい。

 今回の場合、私は、より「味」をふつうに感じる生活を、より長く過ごせること選択したわけである。
 自分自身の味覚を、自分自身の力で、より正確に、感じることを、近い将来の生活として取ったといえる。

 なんてことはない、多少の麻痺や、よだれ垂れ流しを回避するよりも、今ある味の快楽をより長く続ける選択、すなわち「くいしんぼ」の選択をとったことになる。

 どういう生活が、より自分として充実した生活か、それは若い頃には考える必要もなかったし、意識することなど考えもしなかった。
 お茶を飲んで、「おいしい」と思える判断ができにくくなることの方が、私には人生の過ごし方としては、大げさにいえば死に近いもののように感じるのだ。
 人から見たら、「欲」ぼけかもしれない。

 30年ほど前だったろうか。その頃、ある高名な歯科医に取材したことがあった。その先生が言ったことを今でも覚えている。

「人間を除く歯のある動物のほとんどは、歯が抜けること、それはすなわち死、命の終わりを意味します。象のような動物は、そうなると、象の墓場ともいうべきところへ行って、孤独に死を迎えるのです。
 人間だけかもしれません。歯が抜けても、生き続けることができるのは。
 人工の歯を入れたり、技術によって歯を継続させることができるからです。
 でも、味覚などの観点でいえば、もともとの歯がより数多く抜けずに残っていることによって、本来の感覚を、より継続させることができるのです。
 より高いクオリティ・オブ・ライフを続けようとするならば、歯が抜けないことです。抜けないことが無理ならば、高齢になってもどれだけ多くの歯が残るかが、大切な要素です。」

 残念ながら、私はその取材以降も、歯に対しても不摂生な生活を続け、今に至っている。
 だから、これから先、歯はどんどん抜けていくだろう。しだいに、「味」に対する感覚も、退化していくだろう。
 その時は、みなさんにお茶をいれることなど、できなくなってくるだろうし、魅力あるお茶などいれられないかもしれない。
 また、ずっと目標にしている「良い飲み手」であり続けることにも、自信がもてなくなってくるだろう。

 中国茶を続けていく意味が、なくなってしまうかもしれない。それほど、歯は大切なのだ、と今回つくづく考えた。
 もう手遅れかもしれないが、大きい範囲の入れ歯になる時までは、「味」の感覚、「おいしい」と思える感覚を持ち続けたい。

 無事、抜歯は終わった。今のところ、経過も順調である。
 どうやら、リスクは杞憂に終わろうとしている。
「味」という欲を選択したことに、後悔はない。

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