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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年6月1日

どこで思索し、表現するか

――体験から学び、修得し、そして表すということ

サロン風景の写真 5月は、いろいろなことがあった。あっという間に過ぎてしまった。
 生まれて初めて、医者から「インフルエンザです」と宣告された。
 たぶん、以前もインフルエンザにはかかっていて、医者に行かないで治ったことはあったに違いないが、今回は、検査をされ、宣告された。

 冬、インフルエンザにかかられて、レッスンを休む方もよくいるし、テレビなどで、その予防からかかったときの対処まで、十分に知らされているつもりだが、いざ自分がかかってみると、そんな知識を現実のものとして、初々しい体験することになる。

 医者から「この薬を一回飲んでいただければ、熱は一晩で下がります」と言われた。
 高熱の中で、考える力もなく、医者の言葉をなにげなく聞き、「一回、一晩で」と半ば期待をもって、信じたい気持ちにはなった。その一方で、そんなに効く薬など、体験的にはあるばずがなく、まあ数日はかかるだろう、と覚悟を決めた。

 ところが、である。
 本当に、一回、一晩で、熱は下がった。
 その時は、驚いた、というよりも感激した。
 ともかく、熱は下がり、楽になった。

 しかし、完治してしばらくして考えると、これは怖いことかもしれない、と思った。
 こんなに即効性があるということは、どこかに無理が秘められているような疑いをもってしまった。それほど、感動的に効く薬の体験は初めてであった。

 でも、すぐに仕事へ復帰、というのが出来ないことは、以前の情報からも知っていたし、医者からも当然、言われた。「治ったと思っても、1週間は外に出ないでください」。

 大変である。
 レッスンのキャンセルを、十数人の人に連絡をしなければならない。なかなか一度では、連絡がつかない。
 その振替のレッスンを決め、希望もとらなければならない。
 3日後に控えた、中国への出張は、キャンセルしなければならない。その連絡もしなければならない。
 当座、手元に入るはずだった春茶は、入ってこない。その対処はどうするか、対応を考えなければならない。

 熱は下がったとはいえ、外に出ないまま、やること、考えることは多い。
 ふつう、子供なら、熱が下がって次の日から家の中を走りまわって、外出できないエネルギーを発散できず、周りは大変だと聞いていた。
 ところが、すんなり完治という感じでもなかった。本調子に戻るには、5日くらいかかり、ゴロゴロと横になっている時間がほとんどであった。

 完治までのスピードが、小さな子供よりも遅くなっていることを、体験した。ここでも、すでに、私は年寄りの仲間入りをしていることを、実感せざるを得なかった。

 そんな中、久しぶりに「原稿が書けない」という体験もした。
 編集者をしていた20年近い時間の中では、よくあった。ともかく、書けない。
 ふつうなら、しばらく考えて、「何を書くか」さえ決まれば、数千字程度の原稿であれば、1、2時間もあれば、書けてしまえるようになっていた。駆け出しのころは無理だったが、20年もすれば、そうなれる。
 編集者をやめてからは、なお書けるようになった。体験しながら書く内容が多いので、書き始めさえすれば、書けることがほとんどだった。

 でも、「書けなかった」。久しぶりの体験である。
 そんな時、過去、どうやって書いていただろう、と考えた。
 頭で考えて、書いている、と言ってしまえばそれまでだが、先輩たちの中には、あるいは過去の文豪たちの中にもいたような気がするが、「鉛筆が考えて書いている」人が多かった。
 達人ほど、そういう人が多かった。
「筆が走っていくように」書いていた。まさに、筆記用具が考えて文字がどんどん原稿用紙を埋めていっていた。

 私はそんな名人や達人ではないので、「筆が考える」ほどでは到底ない。が、それに近い体験をしながら、物を書いている。
 鉛筆で原稿用紙に、という時代から、ワープロ、パソコンの時代になって、「筆」は、「指先」に変わった。
 
「思索する指」と言われた人もいた。
 彫刻家の高田博厚である。フランスの作家、ロマンロランは、彼の彫刻づくりの姿を、「高田は、指で思索する」と評したという。

 考えていると、あるいは観察してみると、いろいろの領域の達人たちは、その人が表現したり、処理したりする道具で、考えている気がする。

 料理人は、包丁であったり、ロクロを使う陶芸家は、土に触れる指先であったりするような気がする。

 私がお茶をいれる場合は、どうだろうか。
 今までにいくつかの変遷があった気がするが、今は。
「お湯の先端」である。

 ポットから注がれる、茶葉に当たるお湯の先端。
 これが、私のいれるお茶を考え、決めている。
 しばらく前からその場所であるが、以前は「この強さで、こう当てると、こう入る」と技巧が働いていた。

 今はちょっと違ってきた。
 そんな技巧は考えず、勝手にお湯の先端が強さや水量やタイミングなど、ほとんどの要素を勝手に決め、動いている。

 私の頭は、考えていないに等しい。どうして、こんなことができるのかもわからない。でも、こうしていれるお茶は、ほとんど「おいしく」はいる。
 今、私のお茶は、「お湯の先端」が考え、勝手にお茶をいれている。

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