本文へスキップ

コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年6月15日

「変わること」と「変わらないこと」の共存

――「雪水雲緑」。20年間、裏切ることはなかった

サロン風景の写真 早くもあと2週間で、今年も半分が過ぎようとしている。
 そろそろ来年の身の振り方を、決めなくてはいけない。5月、6月、長期間にわたる人生最悪の体調の悪さなどを考えると、どうすべきかの選択が、次第に狭まるような気がしてくる。
 50歳を超えたあたりから、「無理をしないで…」と人には言われながら、無理をしてきたことが多い。それでも、リカバリーすることができた。
 でも、この感じだと、「無理をしないで…」と言われる前に、無理ができない様子である。無理をおして、何かをやる気力がもてない。
 何かを変えなければならないステージに来ている、ということだろう。

 何回か書いたことがあるが、「変える」ということがなければ、面白さは生まれない。魅力も生まれない。「ふつう」であったら、それは「ふつう」であって、それ以上でも、以下でもない。
 しかし、「ふつう」がダメかというと、そんなことはない。「ふつう」には、ある種の「安定感」や「落ち着き」、「安堵感」、「共有した世界」といったようなことがある。

「お茶をいれる」のを教えることでいえば、この「ふつう」をできるように、まず教える。
 所作、基本知識、基本技術、おいしくいれる考え方といったことを、教える。
 そして、「ふつうに」ができるようになると、それは「あたり前」という、極めて自然で、安定したものとなる。その人がいれるお茶は、当然おいしいお茶となり、違和感のないものとなる。

 ところが、これだけでは続かない。「飽き」がくる。
飲み手の側が、「飽き」を感じるのは早い。ところが、いれ手の側も「飽き」がくる。お茶をいれていて、何となくつまらない。いわゆる「マンネリ」である。

 それを克服するのが、「変える」ことである。所作に変化をもたせることでもよい。技術を駆使して、いれ方の表情に変化をつけることでもよい。
 ところが、長年教えてきて、この「変える」ということを、ただ変化させるだけでは、たいして効果は生まれない。変化の方向が、要素が、必要な気がする。それは、「個性」をもって変えることだ。
 それぞれの持ち味、好きなこと、何か人とは違う良いところ、魅力的なところ、あるいは自分の弱点を消す、などを、お茶をいれる中に表現できることが、必要になる。
 お茶は、変化をとげて、魅力的なお茶に変身する。

 全てとは言わないが、いろいろなことで、変わらないものと変わるものが共に必要であることは、よく経験するし、よく見ることである。
「不易流行」。
 変わるものと変わらないものが、共存する世界は、適度にエネルギーがあり、活動的でありながら、しっかりした安定感があって、居心地のよい、楽しい世界になる。

 お茶をいれることは、そう思えるが、肝心の「茶葉」でいくと、なかなかそうなってはいない近年である。ここ15年、お茶は、味においておおむねずっと「下向」といってよい。

 新しいお茶が登場しても、それが「驚き」の味であっても、最初の2年ほどで、すぐに下落に転じる。その変化も、早くなってきている。絶頂期は、ほんの一瞬である。
 そして、ほとんどのケースにおいて、再度上昇することを見たことはない。
 長い歴史をもつ、銘茶においても、おおむね以前のピークの味はもう期待できない。

 そんな中、20年ほど、ずっと高い水準を保ち続けているお茶がある。
「雪水雲緑」(浙江省)である。
 今年も春のお茶が届いた。期待を裏切らない、おいしさであった。  別に、作り手を指定しているわけでもない。一般に市販されているお茶を、届けてもらっているだけである。それで、ある水準を維持できていることは、大変なことだと思う。
 15年くらい前から、生産茶区に行ってみたいと思っていたが、どういうわけか、かなわなかった。たぶん、これからも訪れることはないだろう。

「春を待つ」、「春の香りを待つ」お茶が、だんだん少なくなってきている。
 あるいは、期待が裏切られることがずっと続いている。

「雪水雲緑」も、いつまで続くであろうか。
 ここでも一期一会。もう今年が最後かもしれないつもりで、楽しんでいる。

続・鳴小小一碗茶 目次一覧へ