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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年7月15日

大阪・天満が今、熱い

――そろそろ、無理するお茶を卒業したい

サロン風景の写真「天満」、恐るべし。
怖いわけではない。今まで、知らなかったので、ずいぶん損をした気になっている。
大阪の「天満」である。
 20年もの間、月1回のペースで教室があるので、大阪に通っている。なのに、こんなにおいしいところが、天満にひしめいているなんて、誰も教えてくれなかった。
 聞いてはじめて、今ホットな食べ物スポットであることを教えてくれた。

 現在、寿司屋激戦区。
 うまい、安いのに迫力である。と言っても、最近数か月で、2軒の店に行ったのみだが、「驚き」を味わっている。
 1軒では、ネタが厚すぎて、生まれて初めて一回で噛みきれない、という経験をした。かといって、ネタが悪いわけではなく、どれもおいしい。厚すぎて、もてあますのではなく、満足感、充実感を与えてくれる。

 もう1軒では、東京の食通たちと一緒だった。東京で、一流どころの味も知っている。値段も知っている。
 彼らをしてうならせた。味、値段。コストパフォーマンスのよさを通り越して、「大阪まで寿司を食べにこよう」、とまで言わせた。

 どうやら、「天満」、その横に南北に続く日本一長い商店街「天神橋商店街」、「天満市場」、なかなか魅力的な大阪である。
 東京で、自分のエリア以外にはなかなか行かない、お馴染みにならないのと同じように、大阪の人でも、地元ないしエリアに近い人たちを中心に愛されてきた街のようである。
 ちょっと驚くが、脇道では、日曜日の午前中から居酒屋が開いていて、お年寄りを中心に、酒を飲み交わし、よっぱらいが日の高いのも気にせずに、道をふさいで大声で戯れている。
 街にエネルギーがある。そしておいしい食べ物がある。

「お茶を飲む」というと、茶道の影響か、どうしても「静寂」が理想のように語られる。
 私は、どうもなじめない。もちろん、静かにお茶を飲むのもよいのだが、どちらかというと、わいわいしながら、あるいは、語り合いながらお茶を飲む方が好きである。
 あるいは、いれるエネルギーを感じるいれ手が好きである。

 いれ手のエネルギーがある、というのは、言葉があるとは限らない。無言であっても、十分に何かを感じさせたり、やわらかな空間で包みこむ無限の宇宙を感じさせるなど、いろいろのエネルギーを感じさせるものがある。

 もっと言うなら、その人自身がそこにある。それを感じさせる空間、時間が好きである。
 わかりやすく言うなら、結果、「この人といる時間が好きだ」、「またこの人と一緒にいたい」と感じさせるお茶が飲めることが、私の好むお茶仲間であろう。
「おいしいお茶」は、最低条件である。が、有名なお茶、高いお茶、高価な道具、飾られた空間などは、どちらでもよい。

 まして、堅苦しく、形式的な所作などを見せられ、おつき合いさせられるのは、ご免こうむりたい。
 この人に心はあるのだろうか、この人は自分の魅力をどこに置いてきてしまったのだろう、と考えてしまう。

 飲む立場からみると、そんなことをこのところとみに感じているが、いれる立場からいっても同じようなことを感じる。
 仕事がらそういうわけにもいかないのだが、できれば「この人と一緒にいると楽しい」、「この人のためなら、おいしくいれなければ」、「一緒に“おいしい!”と共感できる」などという人と、同じ空間、時間を共有し、お茶をいれたい、と思う。

 この思いを、とみにこのところ感じるのは、「歳」のせいであろう。
 私の歴史のステージが、世の中の広くを向いて活動しなければならない時代から、無理にそうしなくてもよいステージに変わってきているからであろう。
 でも、このような環境に自分を変える決断は、まだ出来ないでいる。3〜4年前から公言しているが、まだ踏み切れないでいる。

 60歳を過ぎてから、一歩一歩、社会的活動を狭めているつもりでいるが、まだ社会的ニーズは続いている。後継すべき人に、もっと「がんばれ」とエールを送っているが、世代はなかなか交代していかない。
 でも、私の方もそろそろはっきりさせなければならない時が、迫っている。
 そろそろ、無理なく、自分の思うお茶だけに、時間、空間を使いたい。

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