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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年8月1日

プラス「何か」が、いれるお茶を「永遠」にする

――舟越保武さんの展覧会を見て感じたこと

サロン風景の写真 舟越保武さんの展覧会を、ご案内をいただいたので、見に行った。
 すでになくなっているし、彫刻の分野なので、若い世代にはご存知のない方も多いかもしれない。息子さんの舟越桂さんも、木彫の彫刻家として、若い時にすでに海外でも名声を得ていたし、ニューヨークのメトロポリタン美術館にも収蔵されたはずで、そちらをご存知の方が多いかもしれない。しかし、その収蔵のニュースも、もう25年近い前になるのではないか。

 舟越保武さんは、彫刻の世界では、いうまでもなく現代を代表する作家である。
 私は、子供のころ、なんとなく彼の作品に触れる機会があったとわかったのは、10年ほど前だった。舟越さんの作品を、興味をもって見るようになってから、それを思い出した。

 故郷で、明治時代から続くレストラン「五島軒」のロビーなどに、彫刻の大きな像や石の魚などが置いてあって、それらをなんとなく函館の世界とは違った、異質で、ハイソな文化のように感じていた。
 それらが、舟越さんの作品であった。

 舟越さんの作品は、時代により、大きく3つの表現を持つように感じる。
 最晩年の病を患っても、左手だけで、デッサンを書き、粘土を指で削り、キリストの顔を作り続けた作品を見た時には、「鬼気迫る」という感じを、初めて彫刻に見た。当時、強く感動したことを覚えている。
 若い時代からの「美しい」、それは「美しい」女性を作り続けていたものは、舟越さんの心の「清らかさ」とキリスト者的な「やさしさ」が感じられるものであった。
 そして、代表作である「長崎の24聖人の像」や聖職者たちの像は、どれも「神」への永遠の信頼があるから、生き、死に、死してなお生き続ける永遠を、諦めの表情の中にも感ずるのだろう。

 舟越さんの学生時代からの生涯の友人・佐藤忠良さんも、女性像が多い人であるが、佐藤さんの像の女性の魅力と、どこか違い、それが同時代にともに高い評価で、共存させたのだろう。

 感動させる彫刻を見ていて、いつも、絵とは違ったすごさを感じる。
 それは、三次元という立体のもつ力である。とくに訴えかける彫刻には、それに加え作者の何かを感じさせて、ある時は時空を超え、ある時は作者、作品がそばにいて語りかける何かを感じさせる。
 それを四次元的であるといえるのだろうか。作者の何かがそこにある。

 会場を出る時、何かわからないが、感動した時いつもある、ある種の興奮、心の高ぶり、充実感、そしてまだまだ作品の中にいたい離れ難さを感じながら歩いていた。
 それは、いろいろの「よかった」があったからだ。そして、「来てよかった」。

 同じような心象は、別の時にも感じることがある。
 高級とつく、あるいはB級といわれることに関係なく、感動を受けたレストラン、お料理屋さん、居酒屋など、お店から出た時に、同じ感じを私はもつ。

 それらの共通項は、「よかった」、「忘れません」ということ。「忘れたくない」ということ。
 いつも戻る私への「問い」。「中国茶でこういうことは、可能なのだろうか」ということ。

 お茶をこんな目的意識をもって、いれることは、日常、まずないだろう。
 自分自身でいれて、飲んでいるだけなら、考える必要もないだろう。
 ところが、人にお茶をいれる、その上にそのお茶を介して、人と楽しもう、「おいしい」と感じてもらおう、「来てよかった」と思ってもらおうとした時、これと同じことが必要となる。

 結論を急ぐようだが、「おいしく」とか、「美しい」お茶の場はたくさんあるし、作ることは可能である。
「お茶をいれる」ことでいえば、「おいしく」いれる技術を習得できればいれられる。
「お茶の魅力的な空間」を作ることには、道具や装飾物などをセンスよく使う、セッティングすることを、身につければよい。

 と、ここまでは、お茶のいれ方を教えるものとして、だいぶ以前に気づき、カリキュラムを考え、実際に教えてきた。
 しかし、そこがゴールにならないことを、一方で感じていた。
 そのゴールに至らない必要なものが何なのか、に気づいたのは、ほんの2年前である。
 それは、舟越さんの展示会を見て感じたもの、感動したレストランなどの帰りに感じるものと、同じものである。

「忘れません」。「忘れたくない」というお茶がいれられるか、である。
 それを教えることができるかが、課題であった。

 それは彫刻や料理の「作り手」の「何か」であり、お茶でいえば、「いれ手」の「何か」である。
 教えられただけの技術や、道具や空間のすばらしさ、それを超えた「何か」である。

 そして、この2年間、手探りでそれを目指した「お茶のいれ方」を教えてきた。
 今は、まだ、そのいれ手の完成形を見ない。ただ、その人たちが、このままお茶と関わり続けてくれたら、「何か」あるお茶のいれ手になれると、思えるようになった。

 お茶を飲み、「忘れません」、「忘れたくありません」と、いわれ、思われるお茶。
 そこには、「おいしさ」を超えて、「美しさ」と超えて、「何か」を感じさせるいれ手がいる。その人にとっての、その「何か」を気づかせてあげるのが、私の役割かと思う。
 舟越さんが、キリスト者だったからだけではないと思う。「人の心、人との永遠」をいつも考えていたのかもしれない、と私には思える。
あたり前のように言われる、「人を思う心」を意味していると感じる。それは、自分の思い、行動に対する、謙虚で、厳しい自己評価が必要かもしれない。

「何か」を気づいてもらうため、私は、残る時間、お茶のいれ方を教え続ける。
「気づいてもらう」というよりは、本人が気づくことである。もっというと、本人が気づくより先に、飲んだ人の反応が、「何か」を表現できたかどうかを気づかせてくれる。

「何か」は、人によって違っている。それが、その人のいれるお茶が、「永遠」になる瞬間である。

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