本文へスキップ

コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年10月15日

またひとつ、イベントは終わった

――日本の中国茶を取り巻く世界が、存続するためには

サロン風景の写真 前回に書いた「師弟対決」のお茶会も終わった。
 ひとつひとつ、収束に向けて、イベントが終わっていく感じがする。
 会場も、今年から大きい会場に移り、盛況といえただろう。
 主催者の努力は、展示会も併設して行うので、さぞ大変であったろう。

 今年は、イベントとても成熟した感じがした一方で、今後の大変さが感じられた。
 前回までは、まだイベントとして発展する余力みたいなものを感じたが、これからはどうやってこのイベントに新たな魅力を作り、来る人たちのモティベーションを繋ぎとめていくか、それが課題になっていくだろう。

 何事でもそうだが、発展途上にあるうちは、勢いがある。
 しかし、それが完成や実現されていくと、その後の姿を想像できなくなっていく。なんとなくの「閉塞感」である。

 イベントの会場に、2日間いて、この後どうするのかな、と漠然と考えた。このままいってしまうと、いわゆるマンネリである。
 日本の中国茶を取り巻く世界にも、このイベントで感じたマンネリ感というか、次の夢が描けないといった、何ともいえない閉塞感を、私はこのところとみに感じている。

 今回のイベントは、それなりに成功だった思う。が、なぜかあまり明るい気持ちになれなかった。いろいろ考えて、感じていることを整理してみると、あることに気づいた。

「笑いがないこと」、「微笑みがないこと」、「笑い声が聞こえない」ことである。
 そのために、フロア全体に暗い、重い雰囲気が漂っている。

 皆、まじめすぎるのかもしれない。物事に真剣に取り組み過ぎているのかもしれない。
 悪いことではなく、大事なことである。
 展示会に出ている人たちは、仕事だから、硬い顔にならざるを得ない。訪ねるお客も、なぜか真顔だけである。それが、直接外部に発信されるから、全体が重く、暗くなる。

 そこに「笑い」があり、「微笑み」があったら、どんなに救われることか‥‥。
 光も生まれ、輝きがどこかに感じられ、未来がどこかに見えるかもしれない。和やかな感じも生まれるかもしれない。

 まじめな人、真剣に取り組んでいる人を非難しているわけではない。
 なぜそうなるのか、考えた。

 明日が生きられるかどうかの瀬戸際で、必死にもがいている中で、「笑い」など生まれない。「余裕」など持てるはずがない。
 でも、そこに作り物でもよい「笑顔」があったら、ちょっと前向きなことが生まれるかもしれない。
 そんな時に、一杯のお茶を飲むことなど、できるはずはないかもしれないが、お茶は役割を持てるかもしれない。心を落ち着け、一緒に飲む人から一人でないことを感じとり、「おいしい」と感じる中から、どこかに「生きる」ことへの希望を持てるかもしれない。

   先人たちの文献を研究し、お茶を語る人たちの多くは、そんなことを言ってきた。教えてきた。でも、その言葉は、残念ながら、機能することはなく、私たちの答えとして響くことはなかった。
 逆に、空虚さを感じたのは、それは彼らが本当にそれを体感して語ってなかったためであろう。
 今の中国茶は、このままでいったら、「楽しく」なんかなくなってしまう。飽きてしまう。そして、いずれ捨てられてしまう。

 お茶をいれる人も、出展している人も、仕事は大変でも、茶藝は大変でも、中国茶の当事者たちが、ちょっと「にこやか」にするだけで、ずいぶん変わるのではないか。
 会場で、知らない人であればなおのこと、行き違いに「笑顔で会釈」があってもよいではないか。外に現れないでもよい、心の中の「笑顔」があれば、それは外にも伝わってくる。
 そんな余裕にも似た心の構えが、これからの日本の中国茶の世界を、継続させることができるかもしれない。

 難しい顔をしていれるのもお茶、微笑んでいれるのもお茶。
 どちらがよいかは、お茶をいれたことのある人であれば、おわかりだろう。
 たったそれだけの差だが、お茶の存在を肯定するか否定するかの違いくらいあると思える。

「成熟した社会」「脱工業化の社会」「豊かな社会」になった今、次の目標は「定まらない」「見えない」未来をどうするのか、どう生きるのかにある。
 国のレベルでいえば、あるいは経済社会でいえば難しい課題だし、誰もが経験したことのない世界だから、そう簡単に答えは見つからない。
 しかし、個人が生きるうえでは、その生き方を、「微笑み」だけでずいぶん明るい生活に変えることができるのではないか。それをお茶は作れる、と言ったら、言い過ぎであろうか。

 イベント会場に、光がある、華がある、明るさがある。
 余計なお世話だろうが、たぶん、エコ茶会がこれから存続していくヒントはこのあたりにあるかもしれない。
 それは、お茶ができる役割として、言われ続けながら、できなかったことかもしれないし、今まだできていないことかもしれない。

 それは、お金をかけなくてもできることだ。
 そうしたら、もっともっと中国茶に親しむ人が増えてくる。
 そのことに気づいて、茶藝もやるべきだ。日本の茶道を真似たような、禅寺や修道院の中のような環境で、硬くなってお茶を囲むより、明るく、微笑みながら、語りあう、認めあうお茶の方が、どれだけ皆が必要としているか、それに気づくことが、大切であろう。

 原点に立ち帰ろう。
 お茶をいれること、飲むことは、「ほっとすること」、「おいしいと感じること」、人によっては「癒される」と感じることである。
 それがないお茶なんて、「楽しく」感じられないお茶なんて、考えただけで、私は関わっていきたくない。
 これからの中国茶の存続は、「笑い」、「微笑み」、「明るさ」、「光」、「華」‥がキーワードである。
 これは、決して派手さやお金ではない。
 共通して、「品位ある」、「自然な」、「他を認めあうという自律」が、それらに不可欠な要素だと思える。

続・鳴小小一碗茶 目次一覧へ