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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年11月15日

20数年前、サロン参加費を決める

――参考は、「お布施」の金額の決める構造

サロン風景の写真  「閉店セール」に殺到する人の群れを、ニュースで見ることがたびたびあった。
 閉店する理由は、いろいろあるだろうが、たいていの場合、お客が来なくなって、経営がなりゆかないから店を閉める。
 経営者にしてみれば、これだけの人が常日頃来てくれたなら、閉めないでもよかったのに、と思っているに違いない。消費者は勝手すぎる、と消費者を恨む人もいるだろうが、所詮、消費者の心を読めなかったのが原因である。
 この人出を当てこんで、店を閉めないのに、しじゅう店先に「閉店セール」の張り紙をしている店すらある。これは、経営戦略に使えるからだ。

 この10日間、この人出パニックではないが、これに似た体験をした。
 11月初めは、私のサロンの、来年1月期の10月期在籍者むけの案内発送がある。その中で、「2016年末で、20年間続けてきたサロンを、終わりにする」と宣言した。1月期の申込みが殺到したのである。
 反応の中には、前述の閉店セールではないが、「どうせやめないだろう」とタカをくくる人もいるが、これは本当の閉店である。

 私の場合、サロンに参加してくださる方々が、継続的にあり、お茶などの物販をするわけではなくても、参加費や講師料だけの収入で、サロンを維持してくることができた。
「中国茶の魅力」を伝えることだけがテーマであり、形あるものを売ることではなかった。

 20年前、生活文化の研究所でサロンを始めたころ、参加費の価格設定をどのようにするか迷った。
「中国茶」の領域で、このような活動をしていたのは、同好の人たちが集う集まりだけで、それは、関わる人の生活も支えることを含めた活動の対価として、参加費を設定する必要がないものであって、参考になるものは存在しなかった。

 40年ほど前、経済成長が見え始めたころ、形なきものの価値が議論をされることがあった。「ソフト」あるいは「サービス」の価値である。それまでは、目に見えないもの、あるいはそれに近いものは、タダ、ないし金額に置き換えられることはないか、非常に価格がつけにくいことから、安く設定されていた。

 その時代だったような気がするが、「ソフト」あるいは「サービス」の価値が、経済の領域ではなく、「文化人類学者」や「社会学者」などの人たち、具体的には、京都大学を中心とする人たちで、たとえば梅棹忠夫氏や加藤秀俊氏などの中で議論されたことを、見たことがあった。

「お布施と同じ」。というのが、彼らの話題の中にあったと記憶する。
 お布施は、提示される価格というのがない。要するに正札はついていない。払う側が、価格を決める。
 払う額は、世間や払う人がなにげなく決断し、設定している。払われる側も、その評価・ステイタスによって、金額は勘案されるし、払う側も、低くても許されるステイタスもあるし、それなりに払わなければならないステイタスもある。
 双方が、サービスされる内容もさることながら、その社会的評価や価値によって、アウンの呼吸で決められている。

 というような内容だったと思う。
 そんなに払う必要がない、と社会的に考えられる状況の人が、たくさん払いすぎると、時として「見栄っ張り」といわれ、十分に多く払える状況の人が、少額しか払わない時、「ケチ」と評価される。

 20年前のサロンの参加費を決める時、参考になる前例などなかった。
 かろうじて、類似のものといえば、その10年ほど前にスタートした「カルチャースクール」の、受講料くらいだった。だいたい1コマ2,500円から3,000円だった。

 その金額では、多くの参加者を集め、多くのコースを設定するという構図でしか、採算はとれず、存続することがむずかしいように思えた。いわゆる、「大量生産・大量消費」の構造である。

「中国茶」の領域は、まだまだ小さな、小さな世界であった。
 だれも始めたことのない活動を、しかもそれに関わるものの生活を維持しながらできなければ、活動そのものを続けることができない。しかも、物販なく、「ソフト」ないし「サービス」だけで行なおうとするのである。

 迷いながら、決断したのが、1コマ6,000円という価格であった。月2回。3か月のワンクールで、6回のクラスを基本にした。これは、20年間、今も変わっていない。
 カルチャースクールのほぼ2倍の設定である。
「高い」とするか、「安い」とするかは、参加される方々の判断にまかせた。
 こちらは、その価格でも、継続的にお付き合いいただける、「ソフト」ないし「サービス」の内容を開発、開拓していくことであることを、肝に命じた。

 そして今、このことを思い出して、20年間サロンを続けてくることができたのは、「高い」参加費と思いながらも、サロンに参加し続けてくださった方々がいたということが、すべてである。それがなければ、「中国茶の楽しさ」を日本で訴え続けていく、開拓していく、伝えていくサロンの活動はできなかった。

 日本で、世界でたった一人かもしれない、「中国茶評論家」という肩書きで生活してこられたことも、サロンに通いつづけていただけた方々のおかげである。

 一つ心残りは、「中国茶評論家」が、私の他に登場しなかったことである。
「どういう仕事内容ですか」と聞かれると、よくわからないから「評論家」かもしれないが、魑魅魍魎の漠然とした内容で、中国茶をナリワイとする人が、もっと登場することが、日本の中国茶の領域を、もっと豊かに、楽しくするような気がするのだが。

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