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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年12月1日

「紙一重」が、天地ほどの違い

――「おいしさ」を見方にするポイントはここに

サロン風景の写真 人生、いろいろのステージや環境での生活も、長くなってくると、今まで感じなかったことが、突然見えてくるようなことがある。
 断片的に、その時、その時で感じたことはあっても、少し体系的というか、法則的というか、この頃とみに感じるのは、「紙一重」で生きてきたし、これからもそうだろうということ。

 ニュースで、サリン事件の判決を見て、思い出すのも、生死の「紙一重」だ。
「地下鉄サリン事件」。
 地下鉄丸ノ内線の池袋駅は、終点であり、始発の駅である。ホームは一つで、電車は、交互に着き、折り返し出発する。当日朝、出勤するためにいつも乗る電車がホームにいたが、なんとなく向かい側のホームの列に並んで、次の電車を待って乗った。

 あとからニュースを見て、いつも乗る電車、しかもサリンがまかれた車両は、だいたいいつも乗る車両のような気がした。
 まさに、何事もなく今あるのは、一瞬のなにげない決め事。それが生と死を分けた、「紙一重」だったかとも思える。

 人との出会いも、瞬間であり、そこから近しい関係になるかどうかも、瞬間で決まることが多い。
 重要な決め事も、「熟考して」なんていうけれど、じつは「瞬時に」決めている。決まっていることを、追認するために、ちょっと時間をおいて考えているだけだ。少なくとも、私はそうであった。

 一瞬で決めたことは、まさに「紙一重」で、のちの人生を大きく左右することになることもあったような気がする。

 中国茶をやっていて、いろいろのところで「紙一重」と思えることが多い。
「おいしい」「まずい」には、個人差があるので、見解は分かれるかもしれないが、「おいしい」「まずい」は、線上の対極、端と端にあるのではなく、背中あわせの、まさに「紙一重」のように思える。
 すんでのところで、ある時は「おいしい」方にころび、ある時は「まずい」方にころぶ。
 とくに、お茶いれ名人と思われる人がいれるお茶は、「おいしい」「まずい」が紙一重のような気がするし、お茶いれが得意ではないと思われない人がいれるお茶は、「おいしい」「まずい」は、対極で遠いところに位置して、評価ははっきりする。

 こんなことを書いているのは、「みかん」を食べてそう思っている。
 和歌山から、評判になってきた「田口みかん」を送っていただいた。糖度が高く、今でも和歌山のおいしいみかんの代表「田村みかん」を、抜くといわれている。

「甘い」というのも、人によって感じ方で相当違うような気がする。じっさい糖度だけでは、判定できないのでは、と思う。
 みかんの場合は、その酸味など、他の要素とのバランスで、その「甘さ」が際立って感じるかどうかのような気がする。「塩」の使い方での「甘さ」の変化を、皆経験的にもっている。
 糖度が高い、といわれるのは、糖度だけを糖度計で計ったもので、「おいしさ」は、その「甘さ」の単体で感じているのではなく、「酸味」や「触感」などとのバランスで、決まっているのではないだろうか。

 それを中国茶で、考えてみても、同じような気がした。
 お茶の持つ、複雑な要素のバランスによって、「味」は決まってくる。お茶は、それに加えて、その時の環境や状況、ある場合は「いれ手」の技術や人柄までもが、複雑にからみあって、「おいしさ」が決まってくる。
 だから、個人差は、より激しく生じる。それは、まさに、「紙一重」で、「おいしい」方にころぶか、「まずい」方にころぶか、同じいれ手でも、時によっても違ってくる。

 こんな風に考えはじめると、お茶を「おいしくいれる」なんて、至難の業に思えてくる。
 味で勝負なんて、むずかしい。だから、お茶の場合、言いすぎかもしれないが、自然、他の要素に頼ることになっていく。
 道具、所作、設えなど、味そのものではなく、周辺の魅力を強化させることに走る。

 周辺の魅力強化を否定しているわけではない。
 前述しているように、「おいしさ」を感じる要素には、それもファクターとして機能する。
 ところが、周辺要素だけに頼っていくと、「紙一重」でのよい結果は、一瞬、あるいは何回かは発揮することができても、永続的に続けることはなかなかむずかしい。
 常に、とりまく環境要素を変えていく必要がある。それには、財力が必要であったり、自己変革(模様替えなどで経験するように、同じ傾向だと、いくら変えても飽きがくる)が、必要になってくる。
「マンネリ」や「飽き」がくる。

 同じことは、「味」のうえで、いくら名人といわれる「おいしい」お茶がいれられても、技術力だけでは、同じように「飽き」はくる。
 そう考えると、お茶をいれることは、簡単でもあるが、絶望的にむずかしいことでもあることがわかる。
「紙一重」「瞬時」という、ピンスポットをはずさずに、お茶をいれなければならないからである。

 結論を急ぐようだが、それを打破できるポイントは、一つのような気がする。
 ある程度の「技術」や「考え方」、あるいは「経験」のうえで、「紙一重」で「おいしさ」を味方につけ、永続的に維持する力。
 それは、「個性」や「持ち味」である。その人、その人がどこかにもっている「魅力」である。

「魅力」に自信が持てない人も、多くいる。
 でも、いれ方を長年教えていて思うことは、ほとんどの人にはどこかにそういうものを見ることはできるし、たとえそれが見出せない人でも、それを乗り越えられる方法はあるような気がする。

 それは、「いい人になろう」という心がけである。
「他の人のことを考える」、あるいは「他の人によいことをする」存在であること、のような気がする。むずかしく言うと、「自」と「他」の違いの認識にたった、「共存」や「共生」の努力ということか。

「おいしい」「まずい」は、「紙一重」である。
「おいしい」を見方につける最終の一手は、「いい人になる」と努力すること。
 今、お茶をいれることに悩んでいて、この意味がわからない人でも、いつか気づくことができたなら、それからはお茶いれ名人になれるはずである。

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