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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2015年12月15日

20年間、サロンを続けられたワケは……

――「飽きっぽい」といわれた私が

サロン風景の写真 以前にも書いたが、私は生来「飽きっぽい」。と、よく言われた。
 40代の頃に、とくによく言われた。
 本人は、そのつもりはなく、なぜそう言われるのかが不思議であった。

 最初に人からそう言われた記憶は、高校生の時だった。クラブを3つも掛け持ちして、それぞれに相応に出ていたから、他の人からみると、浮気っぽいように見えたようだ。
 でも、そんなつもりはなかった。次から次にクラブを転々としていたわけではなく、3年間続けてクラブ活動をしていた。学業よりも、そちらの方に集中していたかもしれない。

 最初の会社は、アルバイトをしていた当時としては珍しい仕事の会社で、国際会議などのコーディネイト、オーガナイズをする会社だった。
 仕事自体も、興味もあったので、「入れてもらえますか」と聞いたら、「いいよ」ということで、試験もなかった。

 その次の出版社は、大学の先輩から電話があって、いろいろ聞かれて、今度募集があるから来ないか、と言われて、ちょっと仕事もマンネリになっていたので、転職をする気になった。
 新たな興味があったからだ。

 そして、20年弱、編集者を中心に会社勤めをやった。
 編集者は、楽しかった。自分の興味が次々に広がっていった。
 入った時、先輩から「好奇心を持て」と、教えられた。テーマは、次々登場する。調べる、取材する、人に会い話しを聞く。そうすると、また次のテーマが登場する。
 テーマは、無尽蔵であった。自分のキャパシティに限界があるので、全てとはいかないが、それが仕事でもあった。

 中国茶との出会いは、その編集者時代であった。
「おいしいもの」がテーマの一つであり、好きでもあった。
 どこまでが仕事で、どこまでがプライベイトかわからない仕事の始まりは、この頃からだった。
 そんな中、プライベイトで、香港に「食べに」通うようになった。今から30年以上前である。
 そこで出会ったのが、レストランでも、いたるところで登場する「プーアル茶」であった。

 出版社からシンクタンクへ会社を変わることも、この中国茶があったからだ。生活文化の中での「茶」が、研究テーマであった。
 そこで、日本で初めてかもしれない、今あるような「中国茶サロン」を始めた。

 そして、今度は、出版社時代の関係から、ビジネス社会へと戻ることになる。もちろん、大嫌いだし、受けると必ず落ちるであろう試験もなかった。
 小さなグループ会社をたくさん持つ会社だった。その中の会社を託された。そこの仕事もやりながら、以前の出版社の関連会社へ出向となった。そして、そこでアメリカのリスクマネジメント協会の日本支部を作ることになり、その仕事も並行してやることになった。
 また、そのほかの協会を作る仕事と役員もやり、結果、何枚もの名刺を持つことになった。

 数ヶ月たって会うたびに、名刺が新しくなる。増えていく。
 そうなると、人には「飽きっぽい」と見えたらしい。
 私にとっては、周囲に半ば流されながら、肩書きだけが増えていくだけで、そんなことはないつもりだが、人にはそう映るらしかった。

 そんないくつもの掛け持ちは、私の能力も超えている。ということもあって、全てをやめた。
 初めてに近い形で、自分の意思を最優先にし、全てをやめた。「中国茶」だけが残った。
 それは、お世話になった人たちと、関わりのない、唯一の名刺だったからである。

 経営の達人たち何人かに言われた。「趣味でご飯は食べられない」と。親切な忠告であった。
 それでも、関わりある誰かとだけの仕事を残すのは躊躇があり、すべてをクリアにした。
「中国茶」だけが、結果、仕事になった。

 今年も、その「中国茶」を仕事として続けることができた。20年を超えていた。
 支えてくれているのは、通っていただく方々である。
 マーケットから言っても、そしてこのサロンがとっている形態からいっても、ビジネスとして成立することは、常識からいえば、難しい。

 20年たって、来年、サロンの形態に区切りをつける決断をした。
 幕を降ろす決断をするにあったって、いろいろ考えた。
 人から見ると、もっと明快に分析することができるかもしれない。
 通っていただくために、企画を変えたり、内容に変化をもたせたり、いろいろのこともやった。
 経営分析的に言えば、隙間的マーケットニーズの掘り起こしや、ヒューマンリソースの要素も含め、数々考えられる。しかし、それは、20年を通して、一貫して行ってきたことと違う要素である。
 そして思い至ったこと、ずっとこの20年間、変化なくやり通したことが一つだけあることに気づいた。

 それは、「お茶をおいしくいれる」ということ。
 私は、お茶のいれ手として、名手と思ったことは一度もない。ただいれているだけである。
「おいしくはいっている」としても、「まずいと飲んでいる人に申し訳ないな」と思っていれているだけだ。

 何年か前から、自信をもって、他の人に、お茶をおいしくいれることを、教える、指導できるようになった。
 指導することは、言葉にして伝えたり、実践して教えたりすることである。教えられる側は、確実に、おいしくお茶がはいるように、100%ではないにしても、変化していくようになった。

 それゆえ、私がお茶いれの名手のように思われる方も多いのかもしれない。
 教えることは、合格点をもらえるかもしれないが、私は、いれる名手ではない。
 ただ、ずっとやってきたことは、「まずくいれないように」、さりげなくお茶をいれることである。
 企画を変え、いれるお茶に変化をもたせ、スタイルを変えたりしたことも、数多くあった。
 が、20年間続けてきたことは、たった一つ「おいしくいれる」ことをさりげなく、である。

 それが、「飽きっぽい」私が、「中国茶」との関係を続けられた理由かもしれない。

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