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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年1月15日

サロンの思い出ばなし①

――始まり、そして人にめぐまれた

『中国茶雑学ノート』『中国茶図鑑』の本の写真 1996年、神谷町にあった、オムロンの生活文化研究系の研究所であるヒューマンルネサンス研究所(HRI)で、「XiangLe中国茶サロン」はスタートした。
 それより前、私が出版社にいたことから、オムロンの当時常務であり、HRIの社長でもあった成田重行さんと、面識・交流があり、「中国茶」を紹介した。私が香港で、最初に普洱茶と出会ってから10年ほどたって、ある日、中国茶の種類の多さと魅力を体験し、認識しはじめた時期だった。

 一緒に楽しんでいるうちに、本も一緒に書こうとなった。理由は、中国茶を知る、勉強するための入門書が、あまりにも少なく、わかりやすい、触れやすい目線の本が必要だ、と思ったからである。
 その本が、『中国茶雑学ノート』(ダイヤモンド社・絶版)である。

 その本が出される前、HRIで、生活文化の研究の中で「お茶」をやりたい、ということになり、「お茶」のルーツ・「中国茶」を中心に実践的研究をしたいので、その活動に参加しないか、というお誘いがあった。出版社をやめての転職であった。

 机上の研究などしたくはなかったし、生活文化となると、「お茶」を飲んだり、お茶が飲まれている場、生活を見たり、体験しながらでなければならないと考えた。
 日本において、日本文化の代名詞の一つになるほど「茶道」は地位を得ているが、日常私たちが飲んでいるのは、茶道の抹茶ではなく、煎茶がほぼ全てである。お茶の研究というと、茶道にスポットがあたる。でも、普通に飲まれているお茶は、あまりにも生活の一部になりすぎているせいか、お茶を飲むことのもつ意味などを研究することなど、必要性すら感じられていなかった。

 まず、原点を知ること。お茶の原点たる中国茶の現在の姿を知ること。それを当面の目標とした。
 世の中の研究所は、当時、単独の企業体としてはほとんどが赤字で経営されていた。本業と直接関係ない領域の研究所は、とくにそうであった。
 HRIは、独立企業体としても黒字経営を目指す目的から、間もなく実践的活動をしながら黒字を目指す事業会社を作り、そちらに中国茶のプロジェクトも移行された。

 中国茶を知ること、そしてそれを体験的に知ること、そしてそれを広く知ってもらうこと、それが活動の中心であり、「中国茶サロン」の活動は、広く知ってもらうための事業として、スタートした。

 まもなく、紹介されて、上海出身の兪向紅さんが加わった。私よりもしっかりした日本語を話せた。
 彼女は、私たちの日本茶同様、中国で中国茶を勉強などする必要も感じなかったため、このプロジェクトに加わって、中国茶を勉強することになった、と後で振り返っていた。
 でも、彼女のお茶をいれるセンスは、教えられたこともなく、最初からおいしくいれられる才を持ち合わせていた。

 彼女は、上海セレブであった。中国での人脈も、広いものもすでに持っていた。
 彼女の人脈で、まず杭州の中国国際茶文化研究会の王家掲会長に会いにいった。杭州が中国茶の生産、流通、研究の中心であることを、行って初めて知った。

 王家掲氏は、元浙江省の副省長であった。文化担当もされていたので、後日折々に知ることになる文化的な体験も、すべてお膳立てをしてくれた。
 最初に会った時、「高度化した社会の中で、お茶が持つ生活の中での役割、意味を研究したい。そのためにはお茶のルーツである中国茶を学びたい。力を貸してほしい。」とお願いをした。
 彼は、こう答えた。
「たぶん20年後の中国では、同じことがテーマになると思う。私たちにできることは、何でも協力するので、申し出て欲しい。」と、答えてくれた。

「福建省のお茶を知りたい。」とお願いすれば、福州には茶葉公司の人が待ち受けてくれ、研究の第一人者を待機させてくださり、レクチャーをしてくれた。そして、武夷山にも同行し、その後友人となる大紅枹の管理栽培を担当していた、当時の武夷山茶葉研究所の所長、王順明さんのところまで連れて行ってくれたりした。
 また、王さんは、中国美術院の初代院長・潘天壽の記念館を必ず見たらよい、と休みの日に私たちのために手配して開けてくれたりなどしてくれた。中国の絵の中で、いまだに、彼の描いた大きな水牛の絵を超える感動を得たものはない。

 氏が、なぜここまでしてくれたのかはわからないが、ともかく氏の協力がなければ、私たちの活動も広がりを見せることがなかったであろう。
 サロンでいち早く行なった企画、「中国銘茶120種を飲む」という年間での企画が実現できたのも、氏の鶴の一声で、全国から集めてくれた銘茶があったから可能であった。

 日本もよい時代、幸せな時代だったかもしれないが、思い起こすと中国も交流するにはよい時代だったのかもしれない。

 この企画が、後にまとめられる『中国茶図鑑』(文春新書)の礎になった。文春新書で、初めてのカラー写真が多く入った本(カラー新書)になった。

 サロンをやりながら、中国語を勉強しようと思うようになっていた。
 兪さんが教えてくれる、という。
 勉強の1回目が終わった時、兪さんから、こう言われた。
「工藤さんは、中国語はいくら勉強しても、取得できないしょう。諦めてください。中国語の通訳は、私がやりますから。」

 兪さんは、感のよい人だ。その後、何度か中国語を習得しようと頑張ったが、ダメであった。
 私には、向いていないようだ。今でも、中国語なしで、中国茶をやっている。やってきた。
 しかも、仕事として20年を超えてやってきた。決して誇れることではないのは承知である。

 20年以上も中国茶をやっていると、周りは当然、中国語ができると思い、中国語で話してきたりする。あるいは、中国茶の単語を入れながら話してくる。
 わからない。理解できない。
 でも、20数年仕事をして、お茶のおいしさだけは、評価することができる。楽しむことができる。そして、多くの中国語しかできない、お茶の師、友と呼べる人たちと交流できたし、続いている。
 これから先も、中国語を勉強することはないだろうし、習う勇気もない。

(写真は、『中国茶雑学ノート』『中国茶図鑑』)

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