2016年2月15日
研究所で始めた「中国茶サロン」は、大きく二つの目的を持っていた。
一つは、研究所の研究領域である、「生活の中のお茶」の研究である。それを、お茶のルーツである、中国茶を通して、内部の私たちだけではなく、外部の方々にお茶を飲むことの体験していただきながら、研究をしていこうというものであった。
もう一つは、その頃台湾を起点に広がり始めていた「茶藝」を通しながら、「お茶をいれる」という行為を体験し、進化させていこうというものであった。
この「飲む」ことと、「いれる」こと、この二本の柱は、その後今に至るまで、多少のモデルチェンジはあったものの、ずっと続いている。
研究が、机上のもので終わることないことが重要と考えた。とくに「お茶」は、いれる、飲むという生活の中で、無意識に近いかたちで存在しているものである。いれる、飲むということを実践する、体験する中で、見えてくる何かが必要であると考えた結果である。
京都学派と呼ばれた人々が、西田幾多郎などをルーツにもちながら、今西錦司、桑原武夫などに連なる人たち、そして梅棹忠夫という広い才能豊かな希有な学者を生み、そこに広い領域から広いフィールドの人々が集い、共同して行なっていた学問に対する姿勢は、それまでの机上での探求とは、少し違ったものがあった。
それは、「フィールドワーク」や「行動調査」などといった手法を大切に考える、ということである。
独自に生まれたように見えるその手法は、形を変えて、その時代、いろいろのところで見ることができた。
アメリカでは、第二次世界大戦後の学問領域で、「行動科学」が登場してきた。人間の行動を、「学際的」なアプローチにより、研究していこうというものであった。「学際的」とは、一つの学問分野ではなく、たとえば「経済学」「心理学」「生物学」「人類学」「哲学」「政治学」「社会学」などといった、いろいろの学問領域から共同研究をしようというものであった。
当時、イリノイ大学で生まれたコンピュータ「イリアック」が、その人たちが調査した膨大な資料を計算、分析することでも、注目をあびた。コンピュータは、そこから飛躍的に、短時間に進化し、私たちの意識しないところまで入り込んでいることは、説明するまでもない。
徹底した「現場主義」であった。そして、見過ごしがちな、日常のどうということない行動が、民族により違いがあったり、文化であったりする、意味のあることであることに気づかせてくれた。
その後言われるようになる「共生」は、民族の違いだけではなく、宗教、文化の違い、あるいは、組織内の構成メンバーにおいて、また、お隣さんどうしの違いなど、「違いがある」ということに気づくことから、それをお互いに認め合う、尊重しあうことにおいて、社会、集団、組織が、あるいは自然と人間が、ともに存在していけることであることを、彼らは教えてくれた。
梅棹さんのグループの、従来とはイメージが異なるあまり学問的ではない学問と見えがちな、彼らの研究に対して、「なぜこのような研究を行なうのか」と問われた時に、自らの活動、研究をこう締めくくっていた。
「人間とは何か」「私とは何か」「日本人とは何か」。この三つの柱が、研究の根幹にあると。
私たちが始めた「中国茶サロン」は、むずかしく言うと、こういう考え方、目的によって、作られていた。そうありたいとの思いを持って、スタートした。
というと、崇高な学問、研究のように感じるが、その根の部分には、どこか個人的な好奇心、興味などであった。
中国茶が、「おもしろそう」「おいしそう」であり、何かわからない「魅力」を感じ、それを「知りたい」「体験したい」ということが、根の部分にあった。
そして、研究所のあった神谷町のビル、会社の中の会議室とも、談話室とも、休憩室ともとれる会社らしくない空間で、中国茶サロンはスタートした。1995年に、試行を始め、1996年に本格スタートした。
中国本土、台湾の主要なお茶の生産地、研究機関などへの視察、取材研究を数年かけて行なった。
すぐに、中国茶の種類の多さにぶちあたった。体験しようにも、途方もない数のお茶が存在する。全部を飲むなど到底できない。というより、どう集めてよいか途方にくれた。
いくつかの文献を読んでも、どのお茶が必須のお茶で、ということすらわからない。当時は、中国茶について書かれた本は、中国でもそれほど多くなかった。
もう一つは、お茶は非常にローカリティの強い生産物であることがわかった。その土地で生産され、その土地で消費されることで、終わっている。都市部に流通など、ほんの一部の銘茶でしかないことがわかった。
スタッフであった兪向紅さんが、力を発揮してくれた。
兪さんが、杭州の国際茶文化研究会の王家楊会長に連絡をとり、研究会が協力をしてくれることになった。研究会の目からみて、銘茶を100種類選んでもらい、それを全国から集めてくれた。結果、100を超える「銘茶」が集まった。
それが、サロンでの初めての年間活動「中国銘茶120種を飲む」を生むことになり、のちに『中国茶図鑑』(文春新書)に結実していく。
種類の多さだけではなく、もう一つ学んだことがある。
取材、調査をすすめていくと、お茶に対する説明などが、曖昧であったり、人によってまったく違うことによくでくわした。
学問的には、一つのお茶に対する、歴史、製造の仕方などは、ある幅はあるにしても、一つでなければならない。ところが、人によって、ある幅以上に説明が違うのである。そのうえ、次の年に行くと、同じ人の説明が、前年と違っていることなどに、頻繁にでくわした。
しばらくして、「どれも正しい」と思うことが、そのお茶を理解することであると思えるようになった。
民族性の違い。「日本人は曖昧だ」と海外から評価されている、と信じていた価値観を覆されることになった。
日本人、日本文化とは、違った意味の曖昧な人たちも世界にはいる。曖昧さを気にしない人たちがいる、ということを知らされた。
今では、別の意味で、お茶の説明など無意味である、とすら私自身は思っている。
大切なのは、「おいしい」と思えるお茶であるかどうかである。それがお茶の根底にある価値であると思える。
そして、もう一つ「よりおいしく」いれられることである。
(つづく)