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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年3月1日

門前の小僧は、名手になれるか

――人生最後の出会いか。「感動のお茶」再来

文中の台湾・2015年高山冬茶の茶葉の写真 先生、あるいは名人のそばにいたことだけで、教わることもなく、秀でた使い手、作り手になることが可能であることにであった。「門前の小僧、習わぬ経を読む」のとおりである。

 中華料理の世界である。料理人としての腕の話だ。
 すべてではないだろうが、中華の飛び抜けて優れた料理人は、30歳前後で頭角を現わす。20年前の上海でも、その光景を何度も目にした。日本においても、知るところでいえば、脇屋さんもそうだし、しばらく前に、東京・赤坂「遊龍」に戻った阿部さんもその一人だろう。

 そんなことを思い出させたのも、失礼ながら「遅咲き」優秀シェフの登場に出くわしたからだ。
 しかも、その彼は、中華の調理をきちんと学んだこともないはずだ。私が25年くらい前から知っているのは、中華の世界にいたとはいえ、フロアーでサービスをしていた人である。

 今年に入ってから、彼が、昼は今までどおり中華のお弁当を売りながら、夜、店で10人までを限定で、料理を食べさせている、という噂を聞いた。
 早速、それを確かめてみた。彼が、オーナー兼サービスを一人でし、中で料理人一人で作りから洗い物までをしていた、伝説に残る予約の取れない店「ロンフーフォン」。そのシェフだった柳沼さんに、真偽のほどを聞いてみた。
 柳沼さんは、今、赤坂の「うずまき」で腕をふるい、ミシュラン入りするなど、ロンフーフォン時代から、知る人ぞ知る腕の持ち主である。「遊龍」で若き日の名人阿部さんの下で、腕を磨いた人である。

 本当だ、という。
「ロンフーフォン」時代、彼がもう一つ持っていた中華「ローホートイ」には、香港から来ていた料理人たちがいた。ある年末、本国に戻ったきり帰ってこなくて、店をやむなくたたんだ。その向かいでやっていたお弁当を売る店を、彼はかろうじて続けていた。
 ここ1年以上会っていない。彼とは、25年を超えて、お茶と料理を通して、いろいろ付き合いがあった。元気かどうかも、確かめたかった。

 2月半ば、予約をとって、行ってみた。食べた。驚いた。
 大きなテーブルが一つ。昼は、弁当が並べられるのだろう。そこが食卓である。
 周りは雑然と、いろいろなものがおいてある。もう少し、綺麗に整理したら、と思うのだが、彼はあまり気にならないようだ。

 こんな中で、食事が始まった。
 最初の一品、不安大きく、食べてみた。予想以上というと失礼だが、おいしい。でも、これで次の一品で、奈落の底に落ちるかも…。
 ほどなくして、次が出てきた。ちょっとインターバルはあるが、熱いものは熱く、常温のものはそのままで、という調理場から口に入るまでの中華の重要なセオリーは、気配りされている。
 二品目を食べた。これまた、尋常ではない出来である。でも、この次で、と繰り返しながら、一つも奈落を見ずに、逆に評価は天に昇る勢いで昇っていった。不安を完全に払拭し、彼の実力はどこまでのものか、と期待の方が途中から勝りはじめた。
 そして、デザート手前の九品目、焼きそばが出て、「ただ者ではない」腕の持ち主に、彼はなった。脂の落とし方を、見事なバランスでやってのけた。すでに8品目までで、「お腹いっぱいで食べられない」といっていた連れたちが、けっこう量のある焼きそばを完食していた。
 この技は、どうやったの? と聞いてしまった。

 どこでこんな腕を身につけたのか、聞かずにはいられなかった。彼と一緒にやっていた、名人料理人たちに、一歩もひけをとらない腕前に思えた。
 彼いわく、「阿部さん、柳沼さんが料理をする、鍋を振る、その横で、見ていたいろいろの技のようなものを、思い出してやっているだけです」、と少し謙虚に答えた。

 中華を作るキャリアはない。正式に学ぶこともなかった。だからまだ、レパートリーは少ない。
 見よう見まねの技を、ここで使おう、というセンス、そこにフロアーでサービスマンとしてのピカイチのセンスと味を評価する舌をもって、それが、今「門前の小僧」として開花した。
 10年ほど前、香港で「私房菜」(プライベィト・キッチン)が誕生した。その現象も、雰囲気も、風景としてダブっている。

 新しい、遅咲きの中華の名手の誕生である。
 彼の名は、「森田さん」。そういえば、下の名前は忘れてしまった。20年以上、ずっと「森田さん」で呼んでいる。
 店の名は、「老餐檯(ローホートイ)」。東京、白金5丁目にある。
 そして、まだ駆け出しで無名のためか、安い。コースのみ10品で、3500円ほどである。
 彼の店だった、予約が取れない伝説の店「ロンフーフォン」のように、近いうちに予約はとれなくなるだろう。たった8名しか入らない。

 そんな時、もうこんな類のお茶と会うことはないと思っていたお茶と、出会った。名もないお茶である。
 私が経験した、ほんの幾つかしかない「すごいお茶」は、共通した風景を持っていた。

 飲んだ瞬間は、主張もせず、飲み進むうちに、そのお茶の世界、宇宙が作られ、入り込んでしまう。一緒に飲む人たちも、飲み進むうちに、その世界の人になり、ともにその宇宙を浮遊する。
 飲んでいると、皆、無言になっていく。しかし、同じ空間にいる人たちは、しっかりコミュニケーションをしている。言葉はなくても、心を通わせあっている。
 お茶は、決してその存在を、最後の最後まで主張しない。でも、飲んだ人は、いつでもその香り、味を思い出すことができる。どこか、脳裏なのか、心の中なのか、その人の中に、永遠にそのお茶は残り続ける。

 過去、数度だけそんなお茶にであった。
 そんなお茶は、突然前触れもなく現れ、そして消えていった。
 でも、思い出すことのできる、そのお茶の世界は、記憶の中にしっかり残っている。

 そんなお茶に今月、出会った。もう出会うことはない類のお茶、と思っていたお茶。
 台湾の烏龍茶である。お茶名もない。作り手も、聞いたがよくわからない。
 そんな無名のお茶。一緒に飲んだサロンにおいでの人たちは、しばらくしてこのお茶のすごさを思い出すだろう。ご一緒に飲んだ、それだけで、幸せだったと、しばらくして、そして何十年たっても、思い出してくださるに違いない。

「門前の小僧」の例えのように、突然登場した中華の名手。そして、突然前触れもなく現れた無名のお茶。
 人生の中に、大きな存在として、思い出に残っていくだろう。
 期待がなかった。だからこそ、その感動はより大きいのだろうか。

(写真は、文中の無名のお茶。台湾・2015年高山冬茶)

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