2016年3月15日
1996年にスタートした、研究所での「中国茶サロン」には、二つの柱があった。
一つは、中国茶を飲むことを通じて、日本において、お茶のルーツである中国茶の現在を知ってもらうこと。そしてもう一つが、お茶をいれることを通して、生活とお茶との関わりへの興味をもってもらうこと、であった。
「飲む」クラスにおいては、数千の産地・銘柄がある中国茶を、少しでも多く知ってもらうことに努めた。スタート当初に行った年間の企画、「中国銘茶100種類を飲む」は、考えてみると、当時の日本、中国のそれぞれのお茶をとりまく状況が可能にした企画であった。
それまで、書籍でしか知ることのなかったお茶を、中国国際茶文化研究会の協力もあって、集めること、飲むことができた。ともかく、飲んでみることで、いろいろの地域性があることがわかった。
お茶は歴史的に見ても、非常に地域性の強い食品であることもわかってきた。
その土地で作られるお茶は、その土地、その土地の食生活、食文化と密接な関係があり、それに馴染む味、香りを目指して作られていた。
当時は、生産地にお茶の国営工場が一つ、というのがほとんどであって、今の言葉でいえば、「地産地消」の典型みたいな食品であった。
全国区のようなお茶は、本当に数えるほどであった。日本で、缶入りからペットボトル飲料として定着、普及していった、中国茶の代表と思われていた「鉄観音」や「烏龍茶」も、中国においては、全国区の産品ではなく、ごく限られた地域を中心に、生産、消費されるものであった。
ところが、ちょうど20年ほど前、結実してきた「改革開放経済」の浸透は、お茶の世界でも、幾つかの変化を生むことになる。
その一つが、茶区の地域の農家が、あるいは農家以外が、そしてある場合は、その地域以外の資本が、その土地にお茶工場を作り、いくつものお茶会社、工場ができることになった。
当時のよく聞いた言葉でいえば、「野菜や米を作っているよりは、お茶を作った方が儲かりそうだ」と、多くの農家が、お茶会社、お茶工場を作り、生産を始めるようになった。
地域にいくつもの茶工場。当然、その地域では、競争になっていく。同時に、今までは、伝統的な銘茶「xx茶」のみが生産されていた地域に、その工場、会社は差別化をアピールするために、茶名を変えて登場するお茶も増えた。
記憶が正しければ、その象徴的な例が、「四明十二雷」(浙江省余姚)に見る事ができる。このお茶は、それまでは、その地域で一つの工場が取りまとめて出荷していた。この時期に、幾つかできた工場の一つが、伝統的な「四明十二雷」の名称を商標登録したために、古くからあった工場が、その名称を使えず、伝統的な作り方をしていたお茶は、伝統ある名前を変えて、新しい名前にしならなければならなくなった。
伝統ある味、香りのお茶は、古い名を捨て、新しい名前のお茶で流通し、伝統ある名称のお茶は、違う味、香りで、流通をすることになった。
この現象で象徴されるように、このサロンのスタート当時は、銘茶の数を、1350程度で説明できたが、15年ほど前からは、そうはいかなくなった。毎年毎年、新しい名前のお茶が増えていくことになった。
しかし、それは5年前くらいにピークを迎えたと思われる。むしろそれからは、減ることになっているはずである。それは、工場のでき過ぎである。
工場がたくさんでき、地域では供給過剰になる、あるいは利益を追求するために、全国に向けて拡大させていこうとしなければ、経営としては成り立たなくなった。地域内において、需要と供給のバランスが、保たれていたものが、バランスが崩れることになった。
どの地域でも同状況であるうえに、お茶はその地域での食文化などと合致した商品であるので、むずかしさは、なおさらである。
統計上の数字でいえば、中国茶全体の全国生産量は、増加しているのだが、地域における内情は、多くの工場が、閉鎖や吸収が起きることになった。
茶名の増加は、そこでストップがかかったが、違うブームがここ数年で起きてきた。
それは、「高級」「高価格」のものが売れる、という、ここ数年の中国消費の一つの側面を象徴する現象が、お茶の世界でも見ることになった。
見ていると、その中で、有利なのは、歴史などのストーリー性の高いお茶である。
その前触れになったのは、記録をみると2005年だからもう10年ほど前になるが、「大紅袍」(武夷岩茶)のもとになる、4本の茶樹から作ったお茶20gが、上海でのお茶イベントのオークションにかかり、北京のお茶市場が、19.8万元(当時約350万円)で落札した。
どう考えても、高すぎる。新聞にも、ニュースとなって載った。これ以来、「高価格」のお茶が、味、香りの良さよりも、重要視されるように思える現象が出てくるようになった。
そんな現象を、現実化したお茶も、6、7年ほど前になるだろうか、誕生してきた。
福建省の紅茶「金駿眉」は、やはり北京のお茶市場が仕掛けたと噂されるお茶だが、それまでの常識を覆す価格で、登場した。評判になり、現在の中国での紅茶ブーム、紅茶生産を生んだが、中国紅茶の価格をとてつもなく高騰させた。
そして、過去に健康ブームの中で、中国全国で知られるようになった「プーアル茶」は、一度ブームが去ったが、数年前から、「高価格」を売りの一つにして、広がりをみせている。
そのような流れの中で、サロンでは、この20年、一貫して、なるべく多くの種類の中国茶を飲むことを実践してきた。
日本のお茶が、日本人の食生活の中に、いかに適合したものであるかを認識してもらうことも、重要だと、今でも考え続けている。
また、中国茶の味、香りの多様性を体験してもらうことも、重要だと考えている。とくに日本人にはあまり受け入れられてない「緑茶」が、おいしさを持つものもたくさんあることを、体験してもらうことも大切であると、思い続けている。
研究所でスタートして、2年ほどの間で、研究所は、そのものが単独で採算のとれる組織にしていくことを目指し、事業会社を設立した。中国茶のプロジェクトも、そちらに移管され、活動を続けた。その事業会社は、健康でおいしいトマトづくりを、北海道の地域と協力して、大規模ガラスハウスを作り、そこで栽培から販売までを行なうことになった。
大きな投資と事業規模であることもあり、そこに企業資産を集中させるため、中国茶のプロジェクトを、車内のサロンから外部の場所へと移管させることとなった。
そのトマトの事業との関わりの中で、農業の安全とおいしさへの道筋、また、おいしいお茶が安全なお茶に通じる実例を、体験し、習得することとなった。
神谷町にあったサロンは、開催場所を銀座のフレンチレストランの会議室へと移した。
私も、他の会社からの招聘もあり、研究所を離れ、他会社の所属となったが、中国茶サロンをそのまま続けることになった。
スタートの神谷町の時代から、今でも中国茶サロンにおいでいただいている方が、4人いる。20年を超えるおつきあいになった。感謝している。
(つづく)