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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年4月1日

「私もこんなお茶がいれられる」を発見した

――「年間企画・このシーンにこのお茶を」が教えてくれた

坦洋工夫の茶葉の写真 今年のサロンの「年間企画」のコースでは、「このシーンにこのお茶を」という企画をやっている。
 中国茶に関わりをもち始めた頃、中国茶を理解するため、中国茶を楽しむための助けになる本が、中国を含め、あまりにも少なかった。自分自身が、困っていた。それで、本を書こうとして、何冊かの本を出版してきた。その中から、台湾で、中国で、タイで、翻訳されて出版されたものも出た。

 本を書いたのは、教科書的な役割、道案内的な役割のものが必要との思いであった。
 本の出版は、出版不況で、簡単にできる環境には、当時すでになくなっていた。だから目標としては、まず、出版されること、世の中に出ることであった。

 出版された本は、いってみれば、事実を書く、紹介する内容であった。ノンフィクションのくくりではないものの、それに近いものであった。そんな中で、私には、「中国茶のある風景」を、フィクションで書きたい気持ちがずっとあった。
 中国茶をめぐるショートショートといわれる、短文を書きたかった。

 中国茶を楽しむシーン、悲しみの中で中国茶を飲むシーン、思い出に浸る時で中国茶を飲むシーン、友とあるいは愛する人と中国茶を飲むシーン、そんな人生の、生活の中で、中国茶が飲まれるシーンを描きたかった。
 それは、作られたシーンであったり、想像の登場人物など、フィクションの世界でありながら、こういうことがあったら、起こったら、ある場合はあってほしくない、という願望や憧れを描きたい気持ちがあった。

 15年ほど前、何度か書き始めたことがあった。
 しかし、そのたびに、自分の筆力のなさを痛感することになった。何度目かの挑戦は、すぐに諦めに変わった。自分には、出来ないこと、書けないことをそのたびに認識した。

 昨年9月。2016年をサロン最後の年にすることを決め、そしてその年間企画を考えた時、やり残したことを考えた。
 やり残したこと、心残りのことは、いくつかあるが、その中で一番に思い起こされたのが、この中国茶をめぐるショートショートを書くことであった。

 1か月に一つのテーマを決め、4つのシーンにある中国茶を描き、実際に飲みながら、読んでいただくことにした。
 過去何度も、筆力のなさから諦めた経験がある。字数は少ないとはいえ、年間、48本ものショートショートを、本当に書くことができるのだろうか。不安はたくさんのスタートであった。

 シーン設定の構想力も乏しいことは、明白である。それでは、読者との距離は埋まるはずはない。そこで考えたのが、力をもっている人たちが過去に世に問い、受入れられたシーンを思い出していただくことで、私の力不足を補って、進めていこうと思った。
 多くは、ミュージックシーンを借りることで、やってみようと思った。ある人は、口ずさむことができるだろうし、ある人は青春をその歌に託したこともあったであろう。皆に知られた曲。曲名だけで、それぞれの人がそれぞれの解釈で思い出すシーンがあるはずである。

 その思い出していただくミュージックシーンに、私が作り上げたシーンを重ね合わせ、そこに一つの中国茶が登場する。そんな筋立てを描きながら、1月から「年間企画・このシーンにこのお茶を…中国茶ショートショート」はスタートした。

 すでに3つのテーマ、12のシーン、12のお茶が皆さんの前に登場した。
 やってみて、お茶をいれる進行を、少しずつ修正を加えながら、やっている。自分自身の動きがしっくりしない分の修正である。今、何となく、しっくりした流れになってきている。ドラマを、実際にやっているようだ、と感じた。

 予想にはなかったことを感じた。それは、お茶が上手に入ることである。
 よく茶藝のクラスを教える時に、人によっては、「こんな情景を思い出して」と指導することがある。それを実践しているのだ、と感じた。だから、上手に入る。

 たとえば、清らかな空の下、寂しそうにたたずむ人に、いれるお茶をイメージした場合、そのお茶をどういれるか、それは自ずと目標が明らかになってくる。
 柔らかに、包み込むように、清らかな香りと、暖かな温もりを持って、飲んでもらおう、といった、目標が明確になる。頭で認識するより、心で感じるというに近い。そのように思うことで、そのようにいれられるようになる。思うことで、実際の形になってはいっていく。不思議である。

 ずっと、そして今でも変わらないが、お茶は理論、技術でいれるものである、という信念がある。心を込めて、とか、暖かな触れ合いを求めて、などといった抽象的なもので、おいしいお茶はそのようにはいらない。
 かといって、一見理論的にみえる、「xxgの茶葉を、xxccのxx度のお湯で、1煎目はx分むらしていれます」といったガイダンスも、決して理論的ではない。考えれば容易にわかることだが、いれる器が変われば、この決められた数値は、当然変わることになるはずで、それに対する対処が示されていない。

 だから、うまく入らない。
 それゆえ、きちっとした技術指導が必要で、そうすれば、ほとんどの人は、種類が多くて対応がむずかしい中国茶でも、十分においしくいれられるようになる。

 この理論というか方法というか、それとは一見すると理論的とは対照的な、主観的、抽象的な世界でのお茶のいれ方。それが、お茶がおいしくることになっているのは、矛盾がありそうだ。が、でも、この3か月の経験は、私のお茶をいれる経験の中でも驚くほど、スムースに、自分の予想を超えて、おいしいお茶がはいることを教えてくれている。

 理論、技術を基礎にして、いかにイメージをより鮮明に持つこと、描けること、人によっては演じきれることが、お茶をいれる場合に、微妙な味、香りの発現に重要なことであるかを、認識させてくれている。

「年間企画」。3か月が過ぎ、参加される皆さんも、企画になれてこられている。
 が、まだ今一つ直接的な反応が感じられない。できれば、泣くシーンには、泣いてほしいし、勇気のでるシーンでは、活力のある顔になってほしいのだが、これも筆力のなさであろうか。
 この企画は、成功だったのか、失敗だったのか。まだつかめないでいる。

(写真:「坦洋工夫」。2月の1シーンで、カクテルの「グロック」風にしていれた)

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