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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年6月15日

サロンの思い出ばなしE

――今に導いてくれた人たち(その二)

サロン風景の写真 台北・九壷堂の・(セン)勲華さんとの付き合いは、もう30年ほどになる。
 彼というよりも、師であり、勝手に友であると思っている人である。
 彼に出会い、彼と年に何度か顔をあわせ、話しをすることがなければ、私は中国茶を続けていなかったろうと思う。
 何度か、中国茶から離れようと思った時があった。その折々に偶然なのか、必然なのか、そのタイミングに彼はいた。別にやめる相談をしたわけではなく、続けろ、ということを言われたことでもなく、彼との話しの中で、あるいは彼が用意してくれたお茶の中で、中国茶を続ける魅力がまだあることを、教えてくれ、示してくれた。

 彼との出会いは、出版社にいた時に、担当していた著者から台湾の出版社の若き経営者を紹介されたことに始まる。その方のお土産で、落ちついて品のあるパッケージの中国茶をもらった。当時は、まだ中国茶に興味がなく、そのまま放っておいた。
 しばらくして、台湾のお茶に美味しさを感じたとき、思い出した。もらったお茶を思い出し、それを飲んでみた。最初に飲んだお茶の美味しさよりも、もっと美味しいお茶に感じた。今まで体験したことのない、魅力ある世界が広がった。

 その著者に頼んで、九壷堂に行って買ってもらうことにした。帰ってきた彼は、興奮ぎみに、店を探すのに苦労したこと、そのお茶屋さんは、普通のお茶屋さんとは、まったく違う雰囲気であること、そしてそこにいるお客さんも、インテリジェンスのある優雅な人たちであることを語ってくれた。
 それ以来、お茶のシーズンになると、いろいろな手段を講じて、九壷堂からお茶を買ってきてもらうようになった。

 最初のお茶との出会いから数年後、いよいよ自分でも行ってみたい気持ちになった。
 そして、当時の中国茶仲間数人と連れ立ち、九壷堂を訪ねた。著者が言っていたとおり、九壷堂は、住宅地の小路を入ったマンションの一室にあった。
 ・さんは、にこやかに迎えてくれた。廻りにいたお客さんなのか、友人なのか(未だにここに行くと、その区分けがつかない人が、いつもいる)、2・3人の男性と、一組のご夫婦がいた。落ちついた、インテリジェンスのある中年の人たちだった。
 品のある人たちだった。どの人も、職種は違うものの、第一線のビジネスマンや経営者であった。皆、英語で話しかけてきた。帰りにお茶を買ったとき、その彼らが、お茶詰めを・さんや店の人の代わりにやってくれた。でも、彼らも同じくお茶を買い、お金を払っていた。

 そして、私は、出版社をやめ、研究所で中国茶の道に入った。それ以降も、春茶と冬茶を取るための、年2回の九壷堂通いは続き、その後、研究所を離れ、独立して中国茶と関わることになっても、ずっと同じスタンス、同じパターンで、続いてきた。今も続いている。
 振り返ると、出会った最初から30年近い時間が流れていることになるが、いつも・さんと会うと新鮮である。

 会うと何かがある。何かが起きてきた。

 ある時は、「禅茶」と呼んだ、その後まだ同じレベルのお茶に出逢ったことのないお茶を教えてくれた。その数年前に、凍頂の茶農家のために、農業の専門家を誰か紹介してくれないか、と頼まれて、連れて一緒に訪ねたあとであった。
「このお茶の崇高さは、あの時教わったことが形になったものです」、と言ってくれた。作り手は違うが、お茶を扱うものとして、その時の思想が具現化したものだ、と言ってくれた。
 だから、このお茶の名前をつけてもらいたい、と私に言った。
 教養のない私には、到底そのお茶を象徴することすらできなかった。そして、彼は名づけた。「禅茶」にしようと。
 このお茶を飲むとき、禅寺の庭に面した廊下に座っている気持ちになる。取り巻く空気も、音のない自然の世界も、清らか心になるべく、このお茶はありますね、と説明した。
 私は、お茶に、そして、彼の命名に、ひれ伏すしかなかった。

 ある時は、笑いながら、一緒にいる人たちと、『易経』を勉強している、と言った。
『易経』は、難解な書物であることを、まわりの中国の人たちからも聞いていた。
「なぜ、今『易経』を勉強しているのですか?」と、聞いた。
「神が本当にいるかどうかを知りたくて」と、彼は答えた。

 1990年代の半ば、上海、杭州へ頻繁に行くようになり、「茶壷」のことも、いろいろ学ばなければならなかった時、上海博物館のミュージアムショップで、何冊もの「茶壷」の本が並んでいるのを見た。
 その中で、一番重要に扱われている本は、彼の若き日の著作『宜興陶器図譜』であった。台湾で出版されている本が、まだ交流が少ない中国で、堂々と、国の施設に並び、売られていた。海賊版であった。
 その話しを彼にしたら、静かに笑っているだけだった。

 その前に、彼のところに行って不思議に思っていたことがあって、聞いてみたことがある。「宜興紫砂の研究家として認められているのに、なぜ身の回りに紫砂の茶壷が一つもないのか」と。実際に当時の九壷堂の店の中で、茶壷を見ることはなかった。
 彼の答えはこうであった。
「紫砂茶壷は、とうの昔に捨てました」と。

 何か思うところがあったのだろう。
 でも、こういうことが言えることに、彼らしさを感じ、彼の美学を感じた。

 いくつものいくつもの思い出がある。
 私にとっての最初の本『中国茶 雑学ノート』の中で、お茶屋さんを書くところがあった。そこには当然、「九壷堂」を取り上げた。載せることを相談した時、彼は、「日本人の人が来ても、日本語ができないので、十分に対応できない。申し訳ない」と、固辞した。そこで、住所、電話を載せずに、記事としてだけ掲載した。
 それ以来20年間、私は彼との約束のつもりで、彼に迷惑になることをしないために、「九壷堂」の名前を日本では封印してきた。

 数年前から、日本語の出来るお嬢さんが店を手伝うようになった。彼女も、だいぶお茶屋さんとしても、なれてきた。
 今年になってから、「九壷堂」の名前を封印からはずした。もうはずしても大丈夫である。

 今、お互いが歳をとり、どのような別れ方になるのかも、お互いに知らないままで、その日を意識の中で、覚悟しなければならないステージになってきた。
 そう思う中で、私にとって、「茶」を超えた、人生の師であり、友である。
 私にとっては、今でもカッコいい人である。

(つづく)

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