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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年7月1日

おいしいお茶に出会える、運、不運

――「運」を呼び込むためには……

文山包種茶の茶葉の写真 今年の春茶は、手元に、ほぼ届いた感じである。
 サロンが終わる年、有終の美を飾れる、おいしいお茶が揃うとよいが、と少しの不安をもって、台北、上海、杭州を、例年のように駆け足でまわった。

 おいしい、あるいは話題あるお茶を、集めることは、よい茶農家を見つけることで、そこを訪ね、よいお茶を分けてもらう、というやり方を中心に過去はやっていたが、ある時から変えた。
 幾つかの理由があるが、効率よく、あるいは質を高く保ちながらのお茶集めは、必ずしも、それぞれの茶生産者を訪ねることでなくても、効率的にできることがわかった。

 生産者じたいが、高齢などでなくなったり、あるいは仕事をやめた、といったこともあるが、生産者を訪ねるやり方は、広い地域から優れたお茶を、しかも、たくさんの種類を集めることは、不可能である、と感じたからだ。
 時間的、物理的にも無理である。

 広い地域を、特定の数知れない人たちを訪ね歩くことは、時間も必要だし、費用も必要である。
 それに加え、たとえ優秀なお茶の作り手であっても、自身の調子、自然の影響などで、毎年同じようにおいしく作ることは、至難の技である。
 また、特定の作り手で、その年の出来がよいか悪いかは、訪ねて、試飲してみないとわからない。そして、作り手との信頼や友情を続けるには、直接会い、そしてある程度のお茶の量を毎年購入し続けなければいけない。つまり、買い、そして支えるといった要素が必要である。

 訪ねていって、あまりおいしくない、あるいはその年の出来が悪くとも、その作り手を支えきるには、おいしいかどうかは別にして、ともかく買う、ということをしなければならない。
 そういうことから、信頼関係が出来てこそ、おいしいものを、継続的に入手できることになる。

 しかし、年間50種類以上のお茶を、この形で入手するには、前述したように、時間とお金が必要で、それは個人では無理である。
 そして、行き着いたのが、情報集めのコツと一緒である。
 広い、情報や専門性の高い領域を、すべてくまなく知っていることは、ひとりの力では無理である。その領域なり、専門性もった、誰かに聞くこと、あるいは教えてもらうことができるか。そういう人をどれだけ知っていることが、完全とはいえないが、よい情報を集めることにおいて、大切であるし、有効である。
 それをお茶にトレースして考えると、おいしいお茶を、数多くの種類入手できるかどうかは、おいしいお茶を自分に代わって選び、入手できる人を、10人程度知っていることで、解決できる。

 その最前線にいる人は、代表的には、お茶屋さんである。
 ところが、簡単そうで、意外にむずかしい。
 まず、仲良くならないといけない。最初に、自分の好みを知ってもらいながら、どの水準のお茶を要求しているのかを、知ってもらう必要がある。
 そして、優良な顧客にならなくてはいけない。
 ふつうは、多額の購入をすることで、お客として認めてもらおうとするが、そうでもない。むしろ、少額でも、毎年、毎シーズン、買い続けることである。
 自分に代わって、よいお茶を仕入れてくれる、場合によっては生産者に作らせるようなことまでしてくれるようになる。

 そういう信頼関係や友人関係をどうしたら作れるのか。
 そのきっかけは、そこが扱うお茶で、よいものはよい、と評価し、伝え、それを量少なくても買う、そういうことを継続することが、一番大切であると、経験的に思う。

 前にも書いたが、お茶屋さんの主人との付き合いの中で、一番古い付き合いは、30年近くになる。店、客の関係でも、そのくらい長い付き合いは、顧客を超えた関係になるのは、当たり前である。
 お互いを認め合っての付き合いを続ける努力。それは、お茶の関係だけではなく、人生においての大切な人との関係と同じである。

 つまり、よいお茶、おいしいお茶を広く、たくさんの種類を入手したければ、自分が、おいしい、好きだと思えるお茶を扱っている、お茶屋の主人と仲良くなることだ。
 これで、75%は解決する。

 ところがである。
 人生、他のことでもそうだが、運、不運で、あと25%は決まるかもしれない。
 運がいい、ついている、というのは、本当にどうやったら手に入れられるのか、運を変えられるのか、わかったら教えてほしい。まわりを見ていても、中国茶に情熱を持ち、努力もされ、勉強はいうにおよばず、広く活動もされていて、どうにもおいしいお茶などにめぐまれない人がいる。

 その一方で、私は、何度も中国茶をやめようと思いながら、その節目節目のところで、タイミングよく、おいしいお茶だったり、魅力的な話題だったり、素敵な人であったりが、天から「まだ中国茶をやっていなさい」というように、降ってきた。
 だから、今まだ中国茶を続けている。

 運、不運の話は、今年のシーズンもあった。
 文山包種茶を買おうと、台北のお茶屋さんで、お茶を選び、決めて、包装を頼んだ。その時、店主は、「ちょっと待ってください。昨日届いたお茶は、これ以上かもしれない。見てみますか?」と言って、奥から、大きな布の包みを運びだしてきた。
 主人と一緒に、三重の袋を開け、中から茶葉を取り出した。見てみると、これはよい。試飲もせず、決めていた茶葉をやめ、このお茶に変えた。

 持ち帰り、皆さんと飲んでみた。木柵のおじいさんが作ってくれていた文山包種茶の香り、味がした。おいしかった。皆さんも、満足げであった。
 もう1日早く行ったら、このお茶には会えなかった。買えなかった。あの時、店主が、昨日届いたお茶を思い出さなければ、買えなかった。
 運がよかった、としか言いようがない。

 この20年以上、私の中国茶の活動は、半分以上は「運のよさ」であった。そのつきは、来年以降、確実になくなる。
 なぜならば、運に出会うためには、動いていることが必須条件である。「犬もあるけば…」のとおりなのだ。内なる世界ではなく、広く外界で、動くこと。「棒にあたる」以上に、まれには「金塊にあたる」ことすらある。
 インターネットという優れた内なるせかいにいて、動いていているつもりになっても、これだけは、外界での動きが未だに制すると思う。「顔が見えること」、「会う」ことが、運を呼び込む秘訣かもしれない。

(写真:文山包種茶)

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