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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年7月15日

サロンの思い出ばなしF

――今に導いてくれた人たち(その三)

サロン風景の写真 前にも書いた、中国国際茶文化研究会の方々からの助力がなければ、とくに研究所でのサロンのスタート時における協力がなければ、サロンはとうになくなっていたであろう。初代会長の王家揚さんの助力には、今も感謝している。

 その王家揚さんが、会長職を離れる前から、いくつもの大学で教鞭をとりながら、茶文化研究会の学術、教育の担当として、研究会の仕事をやっていた姚国坤先生が、私たちにいろいろの協力をしてくれた。
 お茶の知識、情報、周辺のことについては、聞けばどんな時でも、十分すぎるくらいに答えてくれた。教えてくれた。

 何度目かの老龍井の見学で、姚先生が案内してくれた時、明代に龍井茶として最初に作り、広めた人のお墓を、背丈以上もある草の中から探し出してくれ、一緒に黙礼したことがあった。
 今は、公園風になっているし、誰でも行けるようになっているが、当時は、山を登る途中に、「龍井」と書かれた鳥居のような場所があり、そこで、普通の観光客は、ありがたく「龍井」の発祥地として、見学させられた。
 発祥の地は、今の公園風になったところで、途中の鳥居風の「新龍井」と区別して、「老龍井」と専門家の間で呼ばれていた。

 住んでいる農家の人は別として、慣れている人でも、「老龍井」を見つけるのは大変だった。というのも、表示があるわけでもなく、鉄製の横に長い重くがっしりしまった扉があり、その左にある、潜り戸を入り、ピアノの音などする何軒かの農家の立派な建物の横を通り、とんでもない細い道をのぼって、視界が開けたところに、棚田風に、清の西太后用の「十八本の茶木」がある。
 公園風に作られる前は、竹を渡しただけの囲いだった。その中に、スケスケで、小さな十八本の木が植わっていた。私には、どう数えても、十七本しかないように見えた。公園になってからは、立派なコンクリートの囲いに変わり、うっそうと茶木が茂っているようになった。

 朽ち落ちてしまったお寺の後ろの斜面の中に、そのお墓があったが、それを探すのも、左手の急な斜面の茶畑で、お茶摘みをしている農家の人と、姚先生が大声で話をしながら、ここだろうと、特定してくれた。

 ずいぶん後になって聞いたことだが、そのお墓に最初に行った日本人は、お前だ、と教えてくれた。今は、銅像のようなものが建っているが、そこがお墓の場所だったかどうか、どうも少しズレているような気がした記憶がある。

 研究会の集まりとか国際会議で会うことはもちろん、杭州に行ったときは、用がとくになくても、会って話しをしたり、中国でのお茶のことをいろいろ教えてくれた。

 徑山寺に、サロンのメンバーと一緒に行ったときも、杭州から合流して、一緒に行ってくれた。お寺の山門の前で、ハンドマイクを持って、メンバーに徑山寺、徑山茶の話などしてくれたことを覚えている。

 浙江省が、力をいれ、大きな予算を使って臨安に作った大学、「浙江林学院」に、茶藝も含めた茶文化の研究学部を作ったことも、彼の業績の一つである。今は、「浙江農林大学」になっている。
 一度見てください、と言われて、杭州から車で、行ったことがあった。
 その広大な敷地には、びっくりした。お茶関係の学部だけが、別の立派な建物になっていた。

 知る限り、姚先生は、中国で一番お茶関係の本を執筆、出版している人であろう。今も、国際茶文化研究会の顧問として、本の執筆をされている。

 王家揚さんは、研究会のいろいろの人も紹介してくれた。
 研究会の初期の財政面での支えを作った、副会長であった宋少祥氏も、魅力ある人である。いつも会うとニコニコと接してくれた。小柄な人でありながら、柔らかな存在感のある人の印象が今も強い。
 力ある人ほど、力を誇示しないでも、大きな存在でいられる、ということを感じさせる人であった。

 元の中国茶葉研究所の所長で、研究会の副会長をやっていた程啓坤氏。研究会と行き来する中で、当初から学術的なことでは、いつもお世話になっていた。日本から行った人たちに、お話しをずいぶんしていただいた。

 研究会の教育面、国際面での担当をずっとしていた張莉頴さん。もう20年を超える前、初めて会ったのは、日本だった。研究会から派遣されて、静岡、鎌倉と遊学されていた。鎌倉の日本茶道の家元宅におられたころ、王会長から言われて、私たちの研究所に訪ねてこられた。それ以来の長いおつきあいである。

 姚先生とコンビを組み、「茶藝師」の資格認定の基礎を築いてきたのも、この二人のチームである。資格認定の研究センターが、全国各省全てに出来上がるまで、スタートから7?8年かかったのではないかと思う。
 日本からもたくさんのこの資格取得者があるが、お二人の努力がなければ、この資格の制度化、プログラム化はなかったであろう。
 同時に、この資格認定の教育講習も実際にされていた。韓国からの資格認定の教育も、杭州で受け入れられ、日本だけではなく、韓国の方からも広く、資格取得講習の先生の一人として、接しておられていたので、ご存知の方も多いだろう。

 中国国際茶文化研究会は、王家揚会長のあと、すでに3名の会長が後継し、昨年末、新しい会長以下、役員もすべて交代し、新しい体制でスタートしていると聞く。20年前から交流のあった人たちは、ほぼすべて現職から離れている。
 世代は、確実に変わっている。研究会も、教育部門はなくなり、学術部門が残されていると聞く。茶産業の構造も変わっていく中で、研究会も、4年ほど前から、活動の内容も変化をしていっている。

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