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コラム「続・鳴小小一碗茶」report

2016年9月15日

サロンの思い出ばなしG

――銀座から高輪へ。全てを一人で…。

サロン風景の写真 お世話になった思い出の人たちのことが、しばらく続いたので、サロンの活動の思い出ばなしに戻そう。東銀座のフレンチレストランでのサロンは、どのくらい続いたろうか。3、4年であろうか。
 レストランでのサロンは、前にも書いた日本でも有数のメートル・ド・テールであった内藤さん、村上さんの力も借りた。午後のサロンは、主にお二人に講師を担当してもらい、私は夜のクラスを担当した。というのも、当時は、研究所から小さな会社の役員転職し、その仕事をしながらのスタートであった。
 スタートしてほどなく、サロンの運営も順調に流れはじめた。

 私は、サロンで活動する一方、所属する会社が、じわりじわりと増えていった。
 一年もすると、二つの会社の役員、二つの団体の専務理事や副理事長と、仕事が増えていった。給料は一カ所からのみで、役職、仕事が増えたからといって、給料は変わらなかった。
 そして、会社や団体の仕事を終わって、夜、サロンのある日はサロンに向かい、講師をして帰るという、時間的にもタイトな毎日を過ごしていた。
 今では、朝6時に起きて、夜12時を過ぎて帰宅するような毎日を過ごして、次第に体力的にきつくなってきているが、当時を振り返ると、よく身体が持った、と思える。

 あるとき、本籍の会社の社員から、「この次はいつおいでになりますか?」と聞かれた。
 そのとき、「これはまずい」と思った。あまりにも、本籍の会社がなおざりになっている。どこかに集中しなければ、経営者としては失格である、と思った。
 考えた結果、全ての会社、団体の職を辞することにした。
 それぞれの会社・団体のオーナー、社長などは、すべて知己の関係にある。どれか一つを残して仕事を続けたら、「どうして私の方を残さなかったのか」と、どこかにわだかまりを残すことになる。それまで築いた、それらの方々との信頼関係、交流の関係が崩れることがいやであった。

 そして、サロンの仕事だけを残し、全てを辞めた。
 異口同音に、彼らから言われた。「中国茶サロンで、食べていけるの?」という心配だった。
 食べていけるかどうかは、正直、私にもわからなかった。でも、それまでの社会人生活の中で、私を評価して仕事の仲間に呼んでくれた人たちとの関係を、等しく続けることを選択したかった。

 そして、東銀座でのサロンの活動を中心にすえながら、少しの経済的不安を、「経営コンサルタント」を標榜して生活の補いをつけるべく、二足のわらじをはきながら、新たな環境でスタートすることになった。

 サロンは、私の講師の担当を増やした。
 徐々に、サロンへの参加者も増えていった。その一方で、経営コンサルタントの仕事は、旧知の人たちからの紹介があったりしたが、ほとんどの時間は、サロンの仕事をするようになっていた。
 そんな中、行く末を心配してくれていた以前勤めていた会社の社長だった人から、老舗の菓子店の経営者をやらないか、と紹介があった。
 店舗もたくさん持つ会社である。私には、とても勤まるような仕事ではないようにも思えるが、ビジネスマンとして考えるなら、当然受けるべき話であると思えた。周囲に相談したら、十中八九、その話を受けるべきだ、と答えるだろう、と思った。

 しかし、話を聞き終わった時、すぐにこの話を断った。
 話を聞いている途中から、今、中国茶で私の話を聞きにきている人たちとの関係を、捨ててしまってよいのだろうか、という思いが強くなっていた。
 青臭いと言われようが、世の中で、私を今、必要としている人がいる仕事をしていくべきだ、と思った。
 今から思えば、その時、その話を受けていたら、中国茶サロンはその時に終わっていただろう。そして、私も中国茶との関わりを終えていたかもしれない。天は、続けることを命じたようにも思える。

   そして、半年が過ぎたころであったろうか、会場にしていた東銀座のフレンチレストランが、店を閉めることになった。当然、サロンは、会場を失うことになる。
 続けるための会場、サロンのあり方をどうすべきか、時間のない中で考えなければならないことになった。
 出した結論は、自前の場所で、サロンを継続することであった。
 固定費は、膨大に増えることになる。収支計画を立てる時間などないまま、行動に移らなければならなかった。
 場所選びをすぐにやった。高輪のマンションの一室に決め、そこの改装に取りかかった。数か月を要するので、レストラン閉鎖のあと、高輪の改装完成までの間のサロンは、知り合いの会社やレストランの場所をいくつか点々としながら、続けた。

 そして、2006年1月から、高輪でのサロンをスタートさせた。
 スタートさせるにあたって、決めたことがある。
 すべてを、私一人で行なうことであった。

 過去、弁護士や公認会計士に象徴されるように、属人的な仕事、わかりやすくいえば、その人にお願いしているのであって、たとえ事務所があろうがなかろうが、最後は、その人との直接的な話やアドバイスをクライアントは、必要としている。そのことにこだわることが、大切であることを、経験したり、見聞きしてきた。
 自分の経験から言っても、これは「xx先生にお願いし、xx先生のお話しを聞きたいし、アドバイスをもらいたいのであって、他の先生の判断を聞きたいのではない」ということを、会社時代、弁護士や会計士の先生に抱いたことがある。

 サロンをやっていく上で、この時を機に、私のいれるお茶を皆さんは飲みにこられ、私の話を聞きにこられるのであって、そのことを大切にしたい、と思った。
 手伝いの人は、いた方が時間的には助かることは多いし、こちらの体力も楽である。しかし、過去経験した、たとえアルバイトでも、人を解雇する辛さを思ったら、むしろいない方がよいと思った。
 道具などの洗い物などで、道具を割ってしまった場合、二つとない道具もあり、いくら気にしなくてもよい、と言っても、その人の心に残るものを考えると、自分自身でやった方がよい、というのも、人を置かない理由の一つにあった。
 それ以前に、いくら収支を計算しても、人を雇うだけの資金的な余裕を見つけることはできなかったことも事実である。

 それまでの人生と同じく、準備周到に、というよりも、この時も外部の急激な変化にあたふたと対応しながら、決め手をもっているわけでも、やっていく自信もあるわけでもなく、なし崩し的に、高輪でのサロンは、スタートした。

(つづく)

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